「いいひと」は政治家としては無能?

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民主党の代表レースと日本政治の「道徳」: カトラー:katolerのマーケティング言論

政治的な人間、権力を掌握する権力者に求められる最大の資質とは、暗さだと思う。
「政治とは、最高の道徳(善)である」というアリストテレス言葉があるが、これには2つの意味が隠されている。第一義的には政治は理想を持っていなければならない。しかし、理想と現実は常に乖離するから、現実は常に理想を挫く形で立ちはだかる。そこで、この言葉のもうひとつの意味とは、そうした苛酷な現実と格闘する人間の行動が政治であり、その行動の軌跡にこそ最高の「道徳」が立ち現れてくるということだ。
 
同じように「目的のためには手段を選ばない」という「君主論」の中でのマキャベリの有名な言葉は、「手段を選ばない」という部分ばかりが強調されて否定イメージとともに理解されているが、マキャベリが言いたかったことはむしろ逆である。政治的な理想を実現するためには、あらゆる可能性を排除せずに行動するのが、名君主(政治家)だといっている。
 
目的と手段が乖離する地点で行動するのが、政治家の本質であるとすれば、政治家の行動は、倫理的であることとしばしば矛盾をきたす。革命のために爆弾テロを行うことが許されるのかとテロリストが自問するように、政治家も自分の行為の罪深さを常に自覚しながら政治的理想を実現するために行動する宿命にある。
 
政治的理想のためには、全てを犠牲にすることを厭わない、その覚悟が政治家に暗さを与える。現代の政治家は、有権者への説明責任が常に問われるが、真の行動者は、自分の行為を説明しながら、行動することはできない。

宗教家とか教育者なら、「いいひと」でいいんだろうけどね。
ただまあ、時代を動かす力量と、その結果がプラスかマイナスかは、また別問題だったりするんだけど。

ちなみに「目的と手段が倒錯する地点で行動するのが、オタクの本質」といえます。