検証・大震災:福島原発事故3カ月(その1) 国の避難指示、被災地を翻弄 - 毎日jp(毎日新聞)
3月11日の東日本大震災発生後、首相官邸地下の危機管理センター別室に詰めていた菅直人首相は海江田万里経済産業相らと協議し、午後9時23分、第1原発から半径3キロ圏内に避難指示を出した。12日未明には、1号機の格納容器内の圧力を下げるため、弁を開けて放射性物質を含む水蒸気を逃がす「ベント」実施の必要性が生じるが、午前3時、これを発表した枝野幸男官房長官は記者会見で「(半径3キロの)避難指示の内容に変更はありません」と2度繰り返した。
ところが直後に事態は急変する。午前5時、仮眠中の枝野長官は海江田経産相の「ベントをまだやっていない」という叫び声で起こされた。「格納容器が破裂する恐れがある」という班目春樹・内閣府原子力安全委員長の助言を受け、範囲をいきなり「半径10キロ」まで拡大する方針を決め、午前5時44分に発表した。
官邸での鳩首(きゅうしゅ)協議では「住民がパニックになる」との声も上がったが、「やり過ぎてもいいから避難させよう」という枝野長官らが押し切った。(中略)
12日朝、福島県内だけでなく茨城県や東京都のバス会社から避難用バスが続々と町へ到着した。国土交通省旅客課は、最初の避難指示より1時間以上も前に官邸から「当座100台のバス確保」を命じられていた。混乱はあったものの、自主避難を除いた約8000人が県内約30カ所の避難所に向け出発した。
最後の1台が出たのは12日午後2時ごろ。町役場に残った鈴木久友総務課長は、北東約4キロにある原発から「パーン」という爆発音を聞いた。午後3時36分、1号機での最初の水素爆発だった。
「ああーっ」。爆発の映像が官邸のモニターで流れた瞬間、班目委員長が頭を抱えてうずくまった。衝撃を受けた官邸は午後6時25分、避難指示の範囲を「半径20キロ圏内」に拡大した。
既に「ベント」を決定した時点で、「半径3キロの避難指示」では不十分だったのではないかと思います。 後手に回ったと言われても仕方ないでしょう。
葛尾村の避難の様子からは、国や県からの情報が降りてこない中で、避難するべきかどうか判断を迫られた村長の苦悩が伝わってきます。
爆発が起きた時、葛尾村役場1階の災害対策本部は、不思議な静けさに包まれた。村はほぼ全域が半径20キロ圏外にある。職員の視線は壁際のテレビにくぎ付けになり、爆発を伝える実況中継だけが庁内に響いていた。2階にいた松本允秀村長が下りてきた。「テレビ、見たか?」
村役場は原発から西北西に約25キロ。松本村長に松本静男・住民生活課長(現災害対策担当課長)が耳打ちした。「ここも避難区域に入るかもしれません。最悪のシナリオを想定しましょう」。松本村長は「まだ動く時期ではない」と返しながら、村民約1600人の避難準備を了承した。
その夜、避難区域が10キロから20キロ圏まで広がったことを、松本村長はテレビのニュース速報で知った。国や県から連絡はない。松本村長は「連絡がないのはまだ安全だからではないか」と思った。(中略)
原発に関する村の情報源は国や県ではなく、東電やその協力企業の社員を家族に持つ村職員や村民のネットワーク、それに広域消防だった。
14日午前11時1分、今度は3号機が爆発した。「報道されているより深刻」「東電の社員が原発から撤退し始めた」。松本村長は、職員の話から事態の悪化を感じ取っていた。
情報交換のため松本村長は午後6時半、原発までの距離がほぼ同じ川内村の遠藤雄幸村長と協議した。「うちは自力で逃げる準備をした」。そう告げる松本村長に、遠藤村長は「こっちは沿岸自治体の避難者を預かっている。動くことは考えていない」と応えた。この会話を最後に防災無線は使用不能になる。葛尾村は孤立し、村独自で避難するかどうか判断するほかなかった。
午後9時前、災害対策本部のテーブルを村幹部が囲んだ。「国の避難指示は20キロから30キロに広がる可能性もある」。職員の報告を松本村長は腕組みをしながら聞いていた。「決め手がほしい」
その時、防護服姿の地元の消防職員が息を切らしながら飛び込んできた。「消防無線で聞いたんですが……」。原発事故対策の拠点である大熊町のオフサイトセンターまでが撤退を始めたというのだ。
「避難すっぺ」。松本村長は即座に判断した。もし避難が空騒ぎに終わったら、責任を取るしかない。腹をくくった。「国や県よりずっと情報は少ない。しかし、一か八かの賭けではない」
予定通り村民ら約150人を乗せたバス5台が午後10時45分、村役場を出発した。翌朝、2号機と4号機が相次いで爆発。北西に吹く風に乗って放射性物質が村に降下したのは、すべての村民が避難を終えた後だった。
一方で、放射性物質による汚染を知らされぬまま、避難のタイミングが遅れてしまったのが飯舘村です。
検証・大震災:福島原発事故3カ月(その2止) たった1本の電話で… - 毎日jp(毎日新聞)
飯舘村は震災当日、震度6弱の大きな揺れに見舞われたものの建物に大きな被害はなく、南相馬市などから1300人以上の被災者を一時受け入れた。
原発からは北西へ28~47キロの内陸部にあり、当時は大半が屋内退避(20~30キロ)圏外。だが、相次ぐ原発の爆発で吹き飛ばされた放射性物質が風に乗り、折からの雪で村に降っていた。それを約6200人の村民や被災者が知るのはしばらくしてからだ。(中略)
「水騒動」から10日後の3月30日、追い打ちをかける衝撃的な発表が海外であった。
国際原子力機関(IAEA)は飯舘村を名指しして、測定の結果、村の土壌汚染がIAEAの避難基準の2倍に相当すると指摘した。
事実上、日本政府に避難指示圏の見直しを求める勧告だ。前日の29日、世界貿易機関(WTO)の非公式会合で、食品輸入禁止や工業製品まで含めた検査強化に対し、過剰反応をしないよう日本政府が要請した直後だった。
31日、原子力安全・保安院の平岡英治次長が役場を訪れ、IAEA勧告について菅野典雄村長に「現時点で新たな避難などの措置を取る必要はない」と説明した。
村長は安心した。ところが同じ日、枝野官房長官は官邸での記者会見で「人体に影響を及ぼす可能性が長期間になりそうなら、退避等を検討しなければならない」と述べた。「国はやはり我々を村から追い出そうとしている。そうなれば村民の仕事はなくなり、生活していけない」。菅野村長は警戒した。(中略)
「さまざまな機関が調査した情報が村に事前の報告・相談なしに一方的に公表されるとともに、単に『数値が高い』ことのみ強調され、『世界の飯舘村』になってしまったことによる村民の不安と心労は計り知れない」。提言書には、全村避難だけは避けたいとの思いがにじんでいた。
一方、村のEメールボックスには東京や大阪から「避難をのばして村民をモルモットにする気か」と抗議が殺到した。
結果的にはもっと早くに非難するべきだったということになりますが、経済的なものだけでなくコミュニティの損失を考えると、決断できなかったのも無理からぬところです。
単純な原発からの距離ではなく、放射線量の高い地域に対する早期の警告はなぜ出来なかったのでしょうか?
東日本大震災から3日後の3月14日午前、東京電力福島第1原発3号機原子炉建屋で水素爆発が起きた。菅直人首相ら政府首脳の協議は大激論となった。「避難指示を(半径20キロから)30キロ圏内まで広げるべきです」。内閣府原子力安全委員会側からの提案に、枝野幸男官房長官らは「30キロに拡大するのはいいが、屋内退避にとどめた方がいい」と反論した。
「30キロ避難」は大規模な避難計画の立案が必要になり、混乱する懸念があった。大勢の住民が避難中に再び爆発するリスクも考慮した。首相は枝野長官の主張を受け入れ、15日午前、「20~30キロ屋内退避」を発表した。
「屋内退避はせいぜい数日で終わる」。だが、政府高官の希望的観測は後に覆される。
「SPEEDIを走らせてはどうか」。16日、福山哲郎官房副長官は内閣官房参与の小佐古敏荘(こさことしそう)東大大学院教授から助言を受けた。原発事故などの際、放射性物質の放出量と風向きから拡散地域と累積線量を予測。住民避難の切り札となるシステムだが、停電で初期データが入力されず、役立っていなかった。
原発の状態は悪化の一途をたどる一方、官邸は放射能汚染地域の全容を把握できずにいた。「現在の放射線量から逆算して予測図を出してほしい」。枝野長官はすぐに班目(まだらめ)春樹・内閣府原子力安全委員長に要請したが、報告は震災から約2週間後。官邸に届いた「汚染図」は30キロ圏内の同心円から変形してアメーバ状に広がり、北西には大部分が30キロ圏外の福島県飯舘村のほぼ全域をのみ込んでいた。
飯舘村の放射線量の高さは官邸にも早くから届いていたが、「点から面」に広がった衝撃は大きかった。原発の爆発リスクを否定できないまま、次の一手を打てず、屋内退避はずるずると続いた。(中略)
飯舘村をどうやって「実質的な避難指示」に持ち込むか。着眼したのが、原発事故で緊急時に許容される被ばく量を「年間20~100ミリシーベルト」と定める国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告だった。原子力安全委の指針は「50ミリシーベルト以上で避難指示」だが、広い地域が20~40ミリシーベルトで覆われていた。官邸は国際基準へ切り替え避難指示の対象を最低ラインの「20ミリシーベルト」に引き下げた。
だが、飯舘村には唐突に映った。4月16日、住民説明会で「なぜ20ミリに下げたのか」と問い詰める菅野典雄村長に福山副長官は「原発が安定していない。専門家からの助言で設定した」と答えるのが精いっぱいだった。
政府内からは「経産省などから派遣された中央官僚が地方への対処に失敗した」と、避難をめぐる自治体とのあつれきを責任転嫁する声さえ聞かれた。
が、自治体の批判の矛先は政府に向いていた。飯舘村全域を避難対象とする「計画的避難区域」を正式決定し、屋内退避が解除されたのは22日。ある政府高官は悔やむ。「1カ月以上も屋内退避としたのは非常識だった」
よく「住民がパニックになるのを防ぐために、あえて情報を隠蔽した」とか言いますが、それって状況が把握できていて、コントロールできているということになります。
でもそうじゃなかった。 むしろパニックになっていたのは国や東電であって、伝えるべき情報を伝えていなかったのだと思います。
一言でいえば、「ボンクラばかりで危機管理能力がなかった」ということです。