日本エレクトロニクス総崩れの真因 大同団結や徹底抗戦は愚の骨頂 神戸大学大学院経営学研究科教授・三品和広|DOL特別レポート|ダイヤモンド・オンライン
エレクトロニクスは、私の見立てでは事業立地の劣化が著しい。その点を、マイケル・ポーターの5つの力で見てみよう(次ページ図1参照)。
まず、川下には巨大量販店が出現して、メーカーから利益を吸い取る図式が定着した。アメリカではウォルマートやベストバイ、日本ではヤマダ電機やヨドバシカメラが巨大量販の代表格である。彼らは青息吐息のメーカーを尻目に、5%前後の売上高営業利益率を確保する。
技術の粋を尽くしてモノをつくるメーカーが、モノを右から左へ動かすだけのリーテイラーに利益率で負けてしまうのは、どう考えても異常に映るが、巨大量販1社の売場から追い出されると、年間売上高の何割かが吹っ飛んでしまうとなれば、確かにメーカーは巨大量販の要求を丸呑みせざるを得ない。その結果、店舗に客を呼び込むという名目で、週次の値下げや、話題を提供するための新製品開発が横行し、メーカーは疲弊しきってしまう。日本メーカーが頼みとする中国や東南アジアですら、同じ図式が出現するのは時間の問題である。
なるほどね。 同じく円高や韓国メーカーの追い上げに苦しむ、自動車とエレキでこれだけ明暗が分かれた理由の一つは、自前の販売チャネルを持っているか否かなんですね。
で、どうすればいいんでしょうか?
5つの力のうち、ここまで4つについて述べてきた。残る1つは同業他社間の競合圧力である。日本では、国内勢相互の競争が厳しすぎて、ここで各社とも疲弊してしまうから、韓国勢に負かされてしまうという奇妙な議論がまかり通っている。その行き着く先は、パナソニックとソニーは身内で闘うな、共同戦線を張って共通の外敵と闘えという大同団結論である。悪い冗談かと受け流していたら、DRAM、システムLSI、中小型液晶パネルで実際に日の丸連合が生まれつつあるという。
大同団結は、避けるべき選択肢の代表格と言ってよい。なぜならば、本当の問題は残る4つの力にあり、最も無害な1つを解決しても、不振の構図はびくとも動かないことが目に見えているからである。それなのに大同団結に動けば、資金と時間を浪費して、それこそ命取りになってしまう。資本主義の真髄は、進歩の源泉を競争に求める点にある。「過当競争」などという奇妙な空論に惑わされてはいけない。(中略)
霞ヶ関にも大同団結論を支持する動きがあるが、それも見ていられない。エレクトロニクスを土俵とする日本勢と韓国勢の闘いにばかり話題が集まるが、実は韓国勢の背後には日本の材料メーカーや装置メーカーがいる。日本のエレクトロニクスメーカーは、韓国のエレクトロニクスメーカーを担ぐ日本の材料・装置メーカーに負けたと言い換えてもよい。
現に韓国勢が頑張れば頑張るほど、韓国の対日貿易赤字は増えている。だから韓国は、材料や装置の内製化に躍起になっているのである。いまや争点は、エレクトロニクスにはない。すでにケミカルに移っている。幻想に騙されてエレクトロニクスの救済に税金を投入すれば、虎の子のケミカルにまで火が回ってしまう。助成は、あくまでも敗戦処理=雇用調整に限定すべきであろう。
うーん。 ということは、エレキはもう捨てろということかな?
メーカーが避けるべき選択肢としては、もう一つ徹底抗戦を挙げなければならない。1980年代に日本勢の挑戦を受けたとき、米国のゼニスというテレビメーカーは徹底抗戦に打って出た。米国人の愛国心を鼓舞しつつ、技術では日本に負けていないと訴えたのである。そのゼニスは窮地に追い込まれ、韓国のLGに買収されてしまった。いまはブランドだけが残っている。他方、GEはテレビ部門を売りに出し、これをトムソンの医療機器部門と交換した。GEは、いまも時価総額で世界トップクラスの座を維持していることは周知のとおりである。
戦略には次元がある(図2参照)。日本の戦略論議は、日常の管理を司る組織能力や、製品次元の技術開発を重視するあまり、それより深い次元に目を閉ざしてきた。それが許されたのは、立地や構えが健全だったからである。いまは、どう見ても事業立地が焦点になっている。イノベーション(製品次元)やモチベーション(管理次元)を振りかざしても、どうにもならないことを認識して、徹底抗戦の愚は避けていただきたい。本当の差異化は製品次元でなく、構えや立地に埋め込むものなのである。
いや、金言ですな。 これってものすごく大事なことです。
敗因をつぶさに検討してみると、打開策が見えてくる。日本のエレクトロニクスは、何はともあれ事業の立地や構えにメスを入れる覚悟を決めなければならない。アップルがしたように、量販店依存から脱却するのも急務である。ハードウェア偏重を改めて、ソフトウェアを強化することも忘れてはならない。
このあたりをわかりやすく表現するなら、テレビを捨てたときに何ができるかを問うところに出発点がある。さらに一歩踏み出して、テレビを無くすために何ができるかを問えば、飛躍の可能性すら視野に入ってくる。
しかし、そのタイミングは過ぎてしまったのかもしれない。多くのメーカーが不退転の決意で改革に臨んだ10年前に、本当は立地や構えにメスを入れるべきであった。それをせず、単なる固定費削減に走ってしまった以上、もはや手遅れの感がある。それでも起死回生の一手を繰り出そうというのであれば、それは第二創業、すなわち事業立地を見直す「転地」と捉える必要がある。(中略)
本体の転地を模索するに際しては、エコや高齢化というマクロのキーワードに踊らされてはいけない。新聞紙上を飾るテーマは、激戦区になることを運命づけられているからである。むしろ「手持ち技術の新たな出口」を探したほうが、成功に至る確率は高くなる。そこに、過去の成功事例から学ぶ知見が加われば、転地のハードルは決して高くない。
エレクトロニクスには、まだまだ事業機会が豊富にある。まだまだというより、これからが本番と言うべきかもしれない。20世紀はモノで溢れかえる世界を現出させたが、21世紀の歴史家には、これらのモノが滑稽なまでにお馬鹿さんに見えるに違いない。21世紀は、必要にして最小限のモノが限り無くインテリジェント化していく時代になるからである。
その鍵を握るのが、ソフトウェアとビッグデータであることもすでに見えている。そういう時代に競争力を発揮する企業は、おそらく旧来のモノ造り企業とは異なるスタイルをとることになるであろう。我々は、まさにパラダイム変革の時代に突入しているのである。
最後の方はちょっと雲(クラウド)を掴むような話になってしまいましたが、「21世紀のものづくり」は前世紀とは違うものでなければならないのでしょう。