安倍談話は「論文」だった

  • 投稿日:
  • by
  • カテゴリ:

“採点”するなら、あれは百点満点だった:日経ビジネスオンライン

思うに、「談話」の原稿がああいう内容に着地したのは、それを評価するメディアや評論家や外交筋や各国政府が、談話の原稿を切り刻んで「解釈」することを、原稿の書き手であるスピーチライターがあらかじめ熟知していたからだ。
 
スピーチライターは、自分がこれから書き起こすテキストが、ひとまとまりのスピーチとして、耳を傾けられ、読まれ、評価される以前に、逐語的に解釈され、表現の細部をあげつらわれ、言葉尻をとらえられ、片言隻句を取り上げて引用されながら突っ込まれることを、事前に十分意識した上でテキストをタイプしはじめたわけで、だからこそ、彼の書いた「談話」は、ああいうものになった。すなわち、どこをどう読んでも明確な突っ込みどころの見つけられない極めて専守防衛的な文章として、われわれの前に展開されたのである。

文章の流れや前段・後段の受けなど関係なしに、一部だけを抜粋して論評するマスコミがほとんどでしたからね。

続きです。

だって、お詫びという言葉を使いつつ謝ることはせず、侵略と言いながら日本の参戦の正当さをある部分で示唆し、植民地支配への反省を口にしながら日露戦争の勝利が第三世界の希望であった旨を匂わせ、全体として強い反省の気持ちを強調しつつも、もうこれ以上は謝罪しない決意をにじませなければならないわけで、普通のアタマを持った人間に、こんな論理的に錯綜した原稿が書ける道理はないからだ。(中略)
 
興味深いのは、大学で教鞭をとっている人たちの多くが、ふだんの政治的な立場とは別に、談話原稿の出来栄えをおおむね高く評価していた点だ。
 
おそらく、論文を採点することに慣れた人たちは、今回の談話原稿の課題達成度の高さと、レトリックの巧みさと、論理構成のアクロバットの見事さに、高い点数をつけずにおれなかったのだろう。

なるほど。 「論文」と考えれば一般人が意味不明に感じるのも分かる気がします。

朴槿恵大統領はなぜ、日本に反撃しないのか:日経ビジネスオンライン

--安倍談話は、韓国を徹底的に無視したものだった、という話で前回の「『韓国外し』に乗り出した安倍政権」は終わりました。
 
鈴置:韓国は日本に対し、3つのキーワードを提示して「これらを必ず談話に入れて謝れ」と要求しました。しかし日本は、それらを全部盛り込みながらも、事実上、韓国を謝罪の対象から外したのです。
 
ただ、韓国以外の国に関しては過去を率直に語り、反省すべきところは反省し、謝罪すべきことは謝罪しました。
 
安倍政権はこの談話を、世界の国々と手を携えて生きていく決意を改めて表明する機会に使いました。西欧に対しては「植民地経営の先輩!」とチクリとやっていますが。

次回の戦後80年談話があるとしたら、ハードルが上がってしまいましたね。 個々の具体的な話には言及せず、もっと抽象化した話になるのかもしれませんが。

論点:安倍談話と戦後70年 - 毎日新聞

私は村山富市首相談話に反対ではない。だが、それほどいいとも考えていない。「遠くない過去の一時期」ではいつのことなのか分からない。なぜそういうことになったかについても述べられていない。閣内のコンセンサスも不十分だった。いずれも安倍談話の方が優れている。(中略)
 
安倍談話の欠点として、主語が一人称でないことが指摘される。しかし、談話の中には「日本は」と書いている。日本が加害者側であるのは文脈からも明らかだ。首相がこだわった閣議決定は日本の決定であって、首相個人の意思ではないということではないか。(中略)
 
外交上の謝罪とは重いもので、道徳的劣位を認めることになる。
 
中国への公式謝罪は「四つの基本文書」(1972年の日中共同声明、78年の日中平和友好条約、98年の日中共同宣言、2008年の戦略的互恵関係の包括的推進に関する日中共同声明)で終わっている。韓国とも、65年の日韓基本条約と98年の日韓共同宣言で済んでいる。本当に被害を受けた人々には謝罪するとしても、公式謝罪後は、対等の立場で未来をつくることに努めるべきだろう。謝罪し続けることには私も反対だ。

個人の謝罪と国家の謝罪は違うものだということでしょうか。