安保法案反対のデモ活動、総括は?

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SEALDsのデモ活動は「失敗」に終わったのか? (新刊JP) - Yahoo!ニュース BUSINESS

では、デモ活動は「成功」したのでしょうか? 9月19日午前2時過ぎ、安保関連法案は参院本会議で可決され、成立しました。仮に、デモ活動の目標が「安保関連法案の廃案」であったならば、SEALDsがきっかけとなった今回のデモ活動は、目標を達成できず「失敗」に終わったと評価できるでしょう。一方で、デモ活動の目標が「国民、特に若者の政治への関心を高める」というものであれば、「成功」だったといえるかもしれません。
 
今回のデモ活動については、「素晴らしかった!若者の政治意識が高まるのを感じた!」と評価する人もいれば、「結局、法案は可決されたじゃん。デモなんて意味ないよ」と評価する人もいます。このことからも分かるように、実は、デモを成功とみなすか失敗とみなすかは、デモの「目標」をどう捉えるかによって変わってくるのです。

それはそうなんだけどね。

[為末大学]【“勝利条件”が前後ですり替わるリスク】~日本人の悪いくせを考える~ | NEXT MEDIA "Japan In-depth"[ジャパン・インデプス]

私が常々思う日本の悪い癖に、勝利条件(今回の場合、成功の基準という意味も含む)が試合の前後ですり替わるということがある。例えば試合前は勝利が目標だとしておいて、試合後は成長が目標だったということや、戦争中に今回の作戦は敵部隊を殲滅するのが目標と言っておいて、こちらが壊滅的打撃を受けると相手には驚異を与えたから成功だったと言ったりすることだ。
 
勝利条件を前後ですり替えてしまうことの最大のメリットは失敗をなくすことにある。試合前の目標で試合後も評価してしまえば失敗と成功がはっきりとわかってしまうが、試合前の目標を達成したときはそれで評価し、試合前の目標を達成できなかったときは、違う成果が得られたとすり替えてしまえば、事実上失敗がなくなる。
 
また全てには意味があるという捉え方をする人は、ある意味では勝つにしろ負けるにしろいい経験をしたから成功にしてしまう。もちろん前向きに捉えることは重要で、負けたけれどもこういう点はよかったじゃないかと考えることは素晴らしい。ただ勝負が目的の世界であればそれは敗因分析が終わった後にやるもので、負けたのにいきなりいいところしか見ない組織ではただ慰め合ってるだけで、敗因がわからず終わる。敗因がわからなければまた敗れる可能性が高い。

サッカー日本代表だけではなくて、日本人の全般に対して言えることだと思いますね。

トンデモな言動が目立つ香山リカ氏もデモに参加して青春を取り戻したようで、こんな記事を書いています。

香山リカ 安保法案抗議デモに燃えた夏を振り返る | 日刊SPA!

それからもうひとつ。法案が衆院で可決され、舞台が参院に移っていよいよ9月の半ばに差しかかったあたりで、「この運動はこれからどうなるのだろう?」と先々が気になってきた。当時は「あのー、可決後は」と口にするだけで「まだどうなるかわからないのに今からそんな弱気の敗北主義でどうする!」と叱り飛ばされかねない勢いだったが、そのことじたいが現実離れして見えた。もちろん、フロントラインで「まだまだ止めますよ~!」とSEALDsの元気な若者といっしょに声を上げる人も必要だろうが、一方で「運動の閉じ方」を検討するチームも必要なのではないか、とついそんなことが気になったのだ。(中略)
 
結局、そんな敗北主義者は私以外いなかったようで、19日未明に法案が参院で可決して成立した後も、誰もが「今後もがんばる!」と力強く誓い合い、法案反対デモはとりあえず終わった。その後、「学者の会」の抗議集会で上智大学の中野晃一教授は、「法案の可決を受けても、国会前では一瞬も挫折の雰囲気が漂うことはなく、かえってみんなの力が増した」と大勢の記者たちの前で言い切った。それが事実なのだろう。(中略)
 
あえて露悪的、極私的なことを言えば、冒頭にも述べたように、私は精神科医の世界では「社会的意見を言いすぎる人」として浮いており、マスコミでは「なんとなくハンパなリベラル」としてややイロモノ的な扱いをされており、ネットでもリアルでも1万対1くらいの割合で共感や肯定より批判、攻撃、クレームのほうが多いし、きっと長年、孤独を感じていたのだと思う。そこで匿名の一オバサンとして駆けつけ、無数の人たちの中に埋没しながらコールなどすることで、ちょっとその孤独が癒されるような気がしたのだろう。

出口戦略を立てることなく突っ走ってカタルシスを感じるのもいいですが、そもそもゴール設定なくしては出口戦略なんて立てられないでしょうね。