人質の「自己責任」批判にフリー記者が緊急集会で反論 - asahi.com : 社会
集会では、イラクでの取材経験のある4人のカメラマンがスライドを使いながら現地の状況を報告。アンマンで事件直前の6日、3人に会った古居みずえさん(55)は「危ないからと戦場から記者がいなくなれば、傷つく側から戦争を伝える人がいなくなる。弱い側の立場から伝えることこそジャーナリストの仕事だ」。豊田直巳さん(47)も「ファルージャの戦闘では、600人以上のイラク市民が死んでいる。それを伝えることが無謀と言うなら、我々は仕事が出来ない」と訴えた。
朝日新聞阪神支局襲撃事件のように、マスコミは自分が攻撃されると「言論の自由への暴力」とかいって、ことさら大騒ぎするよね。 よっぽど自分たちは特別と思ってるんじゃないかしら。
渡航制限を無視してまで行くのは勝手だけど、助けてなんて言うなよな。 ベトナムとかで亡くなった戦場カメラマンとかと、今のジャーナリスト達は覚悟が違うように見える。
人道目的で政府に迷惑をかけてもいいじゃないか コリン・コバヤシ氏の声明 - Videonews-Jimbo Blog
緊急時や不可抗力による場合は<迷惑>かけてもいいのです。
海や山での遭難と同様に、「緊急時や不可抗力による場合」は政府が関与することも必要でしょう。
でも”使命感”と”勝手な思い込み”を区別するのは困難ですし、ジャーナリストも取材によって対価を得ている訳ですから、商売目的であると言えます。
全てのボランティアやジャーナリストがそうだとは思いませんが、中には売名家や鉄砲玉がいるわけで、そういう方の不始末を政府が(私やあなたの税金を使って)尻拭いすべきか? 何らかの線引きが必要でしょう。
渡航制限を無視してまでイラクに入るのは、その線を逸脱するものだと思います。
Sankei Web:イラク邦人人質事件 渡航禁止 法規制に憲法の壁 入管法で対応可能の見方も
百地章日大教授(憲法学)は「法規制は憲法違反とはいえない」と話す。憲法で認められる自由は「公共の福祉」に反しないことが原則で、邦人人質事件のように国際問題化し、国益を損ねかねない場合は、「公共の福祉に反する行為という解釈は可能」(百地教授)という。
自由には責任がつきものですからね。 「死ぬ自由」とか「殺される自由」というのもありますが。
Sankei Web:解放の1人、日本大使館に移送後 聴取に不快感
このなかで人質の一人は「イラク人は悪くない。悪いのは自衛隊だ」などと述べたという。さらに、人質事件解決のためバグダッド入りしていた警察庁の「国際テロ緊急展開チーム」のメンバーに対し、「どうして警察の人がいるのか」と不快感を示していたという。
こんなだから「自作自演」とか言われちゃうのに。
Sankei Web:人質にナイフの脅迫映像は演出 政府分析、早期に認識
人質3人は政府関係者の事情聴取に、銃やナイフで脅されるシーンについては武装グループに事前に説明されたうえでおびえたような動作をするように強要されたことを大筋で認め、「食事は十分与えられ、待遇はよかった」などと説明したという。
「自衛隊撤退要求も人質側からの提案だった」なんて真相だったらヤだな。
Sankei Web:イラク邦人人質解放 事件が残したもの 識者に聞く
「三人を英雄視してはいけない」と話すのは東京女子大の林道義教授(深層心理学)。「ボランティア活動は立派かもしれないが、それだけですべて許されるわけではない。彼らを『いいこと』をしていると言う人もいるが、単にボランティア活動だけを見るのでなく、自分の行動がどんな結果、影響を与えているか総合的に判断すべきだ。その意味で、今回の三人の行動は独り善がりに過ぎない」と三人を断じる。
産経新聞の記事はリンクが切れてしまうのだけど仕方ない。
このコメントが一番的確な指摘だと思います。 私も同意見です。
さもらん
>そういう方の不始末を政府が(私やあなたの税金を使って)尻拭いすべきか?
はい、憲法上保障されておりますので、政府は尻拭いする義務を負っております。
禄太郎
週刊新潮が書き立てていますね。新聞広告を見て,思わず買ってしまいました。
この国はアホの尻ぬぐいにたくさんの税金が使われ過ぎです(小さいところでは,放置自転車の撤去など)。アホを野放しにしないような,法整備を望みます。
ダブリン市民
>はい、憲法上保障されておりますので、政府は尻拭いする義務を負っております。
そう、残念なことにね。
多分、今回人質になった人たちが、またイラクに行って拘束されたとしても、政府はちゃんと救出の為の活動を行うと思います。
でも、世論は今回以上に厳しい視線で、人質になった人を見るでしょうね。 結果として、ボランティアやジャーナリストの活動に対する理解を示さない人が増えるかもしれません。
自分で自分の首を絞めることになるわけです。
match
こういった問題は日本国内の世論の文脈のみで分析するのではなく現地(今回の場合はイラク)での
リアクションなどもかんがみる必要がありますね。
小泉首相が批判した高遠さんの発言を聞いてイラク人は感動するでしょう。
自分の命が危険になっても自分たちのためにまだ働きたいといってくれていると。
結果、対日感情はよくなることはあっても悪くなることはないでしょう。
ネットをやっていれば日本のマスコミがあるフィルターに欠けて情報を流していることはよくわかります。
大手マスコミがイラクから撤退しだした今、フリージャーナリストのイラク滞在の意義はより大きくなるでしょう。
気分右翼もバカ左翼も自分の理念をがなり立て、その理念に照らし合わせて行動しようとする。
そうではなくてもっと相対的に対応することが必要ではないでしょうか。
サマワに滞在する陸上自衛隊員550人の特別手当て(給料ではなく。一人当たり約$800)で
サマワ市民4万人が雇えます。自衛隊は一日80トンの水しか浄水できません。
1人1.5リットルとしてサマワ市民12万人分は180トン。
民間なら10分の1の予算でできます。
サマワには浄水場も給水車もあります。こんなアホ政策に莫大な税金を使う必要はないでしょう。
まさ
ぼくには、どうも3人の人質の自作自演の可能性が否定できないでいる。
家族の主張も、3人の主張も、誘拐犯人の主張も一致しすぎている。
そして、傲慢な家族の態度は許せない。
自己責任として、救出にかかった費用は払って欲しい!
払えないなら、日本でちゃんとボランティアすべきだ。
イラクで彼らのやっている事は、ボランティアとは言えない。
単なる自己満足だし、自己顕示欲で動いているだけだ。
match
>まささん
ボランティアが自己満足って当たり前でしょ?
お金もらってないんだから精神的に充たされなきゃ
やってけるわけないじゃん。
ていうか、仕事でも自分が自己実現できないと続かないでしょ?いやいややるより積極的にやる方が長く続く。
当たり前だよ。
それから自作自演の可能性はもちろん0パーセントでは
ないんだから、もしそう思うんだったらちゃんと具体的な
証拠を提示しなよ。
感覚で物言ったって議論にならないよ?
したくないならいいんだけどね。
ガンダーラ2号
私はmatchさん、さらもんさんの意見に賛成です。
今回、日本政府や与党が人質になった3人に対して行った批判は、
その殆どが「自己責任」という論理に基づいて行われていますが、
私にはこの自己責任論が全く合理性も普遍性も客観性も欠いた、
詭弁であるようにしか思えません。
さらもんさんの仰る通り、国民の生命・身体・自由・財産については、
国家(政府)がこれを保障する旨が、日本国憲法前文及び第13条で規定されています。
ダブリン市民さんがどういう論拠を持ってこれを「残念ながら」と
仰るのか判りませんが、およそ民主主義という形態を採る以上、
主権者たる国民を、その国民の厳粛な信託によって選ばれた政府が保護する、
ということは、欠くことの出来ない大原則です。
憲法に具体的な規定があり、その根本的な理念の部分にも大原則があるにも関わらず、
「危険な地域での活動は自己責任で行って下さい。」などと、
平気な顔で言えてしまう日本政府と与党の関係者を見ていると、
「本当にこの人達は自分達が民主主義によって選ばれた政府そのものであることを
認識しているのだろうか?」と不安にならずにはいられません。
私としては、「もう少し自覚というものを持って頂きたい。」との
小泉首相のコメントを、そっくりそのままご本人にお返ししたい気持ちです。
加えて、敢えて混乱を招くであろうことを承知の上で申し上げますが、
そもそも「自己責任」という言葉は、日本政府やマスコミが使っているような、
「自分の行動の後始末は自分でつけましょう」という意味の言葉ではありません。
「自己責任」とは本来、近代法の持つ基本原則の1つであり、
「人は自らの負うべき相当の責任のみを負い、その責任の枠を超えて、
他者に帰されるべき責任までを負わされることはない。」
という意味の言葉なのです。大前提となるべき語意をすら誤解しているのですから、
そのような論理に正当性や合理性などあるはずのないことは明白です。
これは揚げ足取りでも何でもなく、民主共和政府が近代法において
市民の自由を保障する基本原則を理解していないということは、
大変重大且つ危惧されるべき事態であり、私達は人質になった方々の
責任を云々するより先に、こちらの方を問題視すべきとさえ思います。
この他にも、政府の見解が詭弁であるという論拠はあると思いますが、
現時点で私が考えて思いついたものだけを、今日は紹介させて頂きました。
これをお読みになってなお、人質になった方々の責任を追求することが
正しいと思われるのであれば、相当に強度な論理が必要になるかと思います。
そのようなご意見がありましたら、ぜひ拝聴したい次第です。
皆様の反応を楽しみにお待ち致しております。
最後までお読み頂きまして、誠に有難うございました。
追伸:尚、政府の自己責任論云々とは別次元の問題として、
私も今回の人質事件が八百長であるという可能性を完全に否定出来ずにいます。
テレビ慣れしてしまった弊害なのでしょうか。
どうも全てがうまく運びすぎている気がするのは事実です。
ダブリン市民
コメントくださった皆さん、ありがとうございます。
まず「自己責任は法律用語」という点について。
私もこれについては、『ウェブログ@ことのは「自己責任:ややこしいときは面倒でも情報源に当たれ」』
http://kotonoha.main.jp/2004/04/19self-responsibility.html
で知りました。
この言葉の”用法”についての私見は、上記のエントリーにコメント(4/19付)してあります。
次に「政府の自己責任」ですが、これこそ正に私が「残念ながら」と書いた部分です。
つまり「政府は邦人保護に無限責任がある」というのは、おかしいのではないかということです。
”自己責任”が「自分の責任のみ負えばよい」という意味で言えば、「政府の自己責任」とは「政府として渡航延期などの勧告を出しているにも関わらず、それを無視していく人について政府が保護責任を負う必要はない」ということになりますね。;-)
政府関係者のみならず、多くの一般の人が”自己責任”を口にしていることは、ちょっと面白いなと思っています。 もしかしたら、日本人の親方日の丸的な考え方が変わってきているのではないかということです。 バブル崩壊以後、護送船団方式の崩壊、ペイオフ解禁や年金問題などで「自分の身は自分で守る」という意識が出てきたのかもしれません。
当然ゆり戻しもあると思いますが、日本社会が成熟する一つのステップとも言えるでしょう。
ちなみに”自己責任”大合唱が沸き起こった背景については、『圏外からのひとこと「弱者の特権を権力として濫用する者」』
http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20040421#p01
がなかなか面白いです。 ご参考までに。
私自身の”自己(の)責任”の考え方は、自らを律する為のもので美意識に近いものだと思っています。 「自分のケツくらい自分で拭けなきゃカッコ悪いぜ」って感じでしょうか。
私はバイクに乗っていますが、人里離れた林道などに入る時は、それなりのリスクを覚悟しますし、トラブルに対処できるだけの装備も持っていきます。 レベルの低い話で恐縮ですが、普段からそういう心持ちでいる人ほど、「政府は助けて当たり前」的意見を耳にすると、「そうかぁ?」と思ってしまうのではないでしょうか。
『やじうまGUIDEの日記「高橋源一郎氏のたとえ・野口健氏のたとえ」』
http://d.hatena.ne.jp/guide/20040421#p6
で、登山家の野口健氏の辛口コメントが取り上げられていますが、エベレスト登頂などは正に「死して屍、拾うものなし」ですからね(高橋氏のコメントは、親方日の丸的)。
よく「3人は人助けに行ったのだ。登山などと一緒にすべきではない」という人もいます。 一緒にするのは乱暴かもしれませんが、冒険家や登山家はちゃんとリスクを引き受けていますよね。 家族や支援者もちゃんと覚悟をしてる。 彼らからすれば「こっちこそ一緒にされたくない」という気持ちだと思いますよ。
人質になった本人達は、覚悟をして行ったのかもしれませんが、家族や周囲の人たちがそれを十分理解していたかは疑わしいです。 自分のやりたいことをやる為には、そういう環境作りも必要なのではないでしょうか。
ダブリン市民
ちなみに「自作自演」についてですが、当blog「本当に拘束されてるの?」
http://ichiro.as.wakwak.ne.jp/mt/monolog/archives/001090.html
に関連ニュースを追記してありますので、よかったら参照してください。
これらの疑問について説明の義務を負っているのは、「自作自演」を疑う人たちではなく、人質になった3人です。 費用負担などというしょうもない話より、これこそが一番の責任のとり方ではないでしょうか。
今はまだムリそうですが、落ち着けばいずれキチンと説明してくれると信じています。
match
最近論調が変わってきましたね。
公明党の神崎さんが政府には救出義務があったと発言しています。
というか、政府がなぜ、救出活動に動いたかというと、政府自身が救出義務があると考えたからで、それを助け出してから(政府の救出活動がどれだけ効果的だったかは疑問ですが)金、払えっていうのは筋が違うだろうと。僕はそう思うわけです。
避難勧告を出した時点で政府の責任が果たされていたというのは
諸外国の実例をみても当てはまりませんね。
それからダブリン市民さんが引用したサンケイの記事ですが、その後、旧バース党の情報部の関与を疑っていますね。その記事にはついでに撮影はSONYのビデオカメラ、編集はマックらしいと書いていました。
ノンリニアで編集できるなら普通、ノイズ(言って、言って)は消してしまうでしょうから。
これは、どうぞ検討を重ねていただければと思います。日本語を話せる人間が拉致組織側にいたとすればそれは重要な問題ですから。
で、3人に自作自演の疑念を晴らす義務があるというのはあたりません。今、公式には自作自演の可能性は否定されているわけでそれでも、あえて批判するならば批判勢力にその証明義務があります。
公の場で個人を批判する場合、批判する具体的な根拠を提示するのは批判者でしょう?おまえ、うそついてるっぽいから嘘ついてないか証明しろって言うのはどうかと思いますよ。
裁判を考えてみてください。違法性の具体的な立証義務は検察側にありますよ。近代法の常識です。
それから、もうちょっと記者クラブ、クロスオーナーシップの弊害を考えて、マスコミを疑うことを覚えたほうがいいですよ。
ダブリン市民
matchさん、コメントありがとうございます。
政治家は世論の風向きに敏感ですからね。
「批判が強すぎる」という声が増えてきたことに反応しただけでしょう。 人気取りだけで、ポリシーなんてないんです。
個人的には、費用請求(といっても健康診断とドバイ-成田のエコノミークラスの代金だけ)なんて無意味だと思っています。 救出に掛かった経費は、一説には20億とも30億とも言われている訳で、ひとり頭10万ぽっち払ってもらっただけでは、なんの足しにもなりません。 懲罰的というより、むしろ人質に批判的な人々を納得させる為に、お役人と政治家が考えたのでしょう。
>避難勧告を出した時点で政府の責任が果たされていたというのは諸外国の実例をみても当てはまりませんね。
国際的にみてどうなのかは正直わかりません。 実例をお持ちでしたら、参考までに教えて頂けると幸いです。
ただ、私は”自国民の保護について政府は無限に責任を負うべき”というのは、やはりムリがあるように思います。 国民からすれば「余計なお世話」という状況もあるわけです。
「政府の自己責任」の線引きに「避難勧告」が適するかは、また議論が余地があろうかと思います。
>で、3人に自作自演の疑念を晴らす義務があるというのはあたりません。今、公式には自作自演の可能性は否定されているわけでそれでも、あえて批判するならば批判勢力にその証明義務があります。
義務というのは、ちょっときつい言い方でしたね。
では、真相解明に協力する道義的責任がある、というのではどうでしょう? 別に物的証拠を出せとか言ってる訳ではなくて、数々の疑問点に答えてくれればいいのです。
変に犯人側に同情して捜査に非協力的だと、それこそ益々疑われますよ。 構わないというなら、それもいいですが。
ところで「公式には自作自演の可能性は否定されている」という点ですが、よかったらニュースソースを教えてもらえませんか?
私自身は、まるっきり自作自演とは思いませんが、例えば犯人と話しているうちに意気投合して、日本への要求に(自分たちの意志である)自衛隊撤退を盛り込ませる、というのは「あり得ないともいいきれない」です。
ガンダーラ2号
ダブリン市民さん、ご返答ありがとうございました。
丁寧なご返答を頂いたからには、私も出来るだけの応答をさせて頂く次第です。
>「政府の自己責任」ですが、これこそ正に私が「残念ながら」と書いた部分です。
>つまり「政府は邦人保護に無限責任がある」というのは、おかしいのではないかということです。
>”自己責任”が「自分の責任のみ負えばよい」という意味で言えば、「政府の自己責任」とは「政府として渡航延期などの勧告を出しているにも関わらず、
>それを無視していく人について政府が保護責任を負う必要はない」ということになりますね。;-)
この件について、ダブリン市民さんは大きな間違いをなさっています。
「自己責任」という言葉の本来の意味については昨日申し上げた通りですが、
その語意に沿うならば、「政府の自己責任」などというものは存在しません。
いえ、正しくは、政府には近代法の基本原則としての自己責任原則は適用されないのです。
もう一度、「自己責任」の語意に関する部分を読み直してみて下さい。
冒頭に「人は」という言葉がありますね。
この短いフレーズによって、ダブリン市民さんの推論は否定されます。
要するに、政府は法律上の「人」ではないのです。法律上の人に、
私達が通常考える生物学上の人間を指す「自然人」と、
ある社会集団に人格が有るものと見做す「法人」の二種類があることは、
おそらくご存知かと思いますが、政府自体はこのどちらにも当てはまりません。
無論、国家政策として具体的な事業を運営する場合等に、
行政が主体となって法人を組織することはありますが、
それは今回、「自己責任」論が政府にも適用されることを証明するものではありません。
政府・国というものは組織的な機能や意思を持っているように見えますが、
法律上の「人」であるという認定を受けていない以上、自己責任原則は適用されないのです。
よって、政府が国民の保護責任を負う必要はない、などという主張は間違いです。
尚、上記の「政府が法人か否か」については、法律家の間でも議論のあるところと思います。
私は「政府非法人説」を主張していますが、政府が法人であると主張する
専門家もいるかもしれません。ただ、仮にその主張が正当であり、
政府に自己責任原則が適用され得るとしても、自国民の生命・身体・自由・財産を
保護することは日本国憲法に明記された政府の義務であり、
自己責任原則における「自らの負うべき相当の責任」に該当します。
この点から見ても、政府が今回の人質事件に関して、
被害者を批判するのに用いた「自己責任」論などというものは、
荒唐無稽、何らの客観性も普遍性も合理性も持たない詭弁に過ぎない、ということは明らかであると言えるでしょう。
>バブル崩壊以後、護送船団方式の崩壊、ペイオフ解禁や年金問題などで「自分の身は自分で守る」という意識が出てきたのかもしれません。
>当然ゆり戻しもあると思いますが、日本社会が成熟する一つのステップとも言えるでしょう。
そうでしょうか。これはおそらく感覚の違いなのでしょうが、
私は今回の異常なまでの被害者批判と自己責任論の台頭については、
ダブリン市民さんと少々、違う見解を持っています。
「自分の身を自分で守る」ということは大切な事ですし、
私もそういう気概がここ数年、日本人の間に浸透しつつあることは否定しません。
しかし、その自己防衛の気風が、必ずしも自主独立の精神に直結するものではない、
と私は思います。私としては、この自己防衛の気風が直結している先は、
冷厳なまでの個人主義、自己中心的な利己主義ではないのか、と危惧せずにはいられません。
今回の政府・国民・メディアが殆ど無意味な団結をして、
一斉に「自己責任」を主張し始めたのは、まさにこの利己主義が、
国民の意識の根底に横たわっていた証拠だと思うのです。
「人道復興支援だか何だか知らんが、退避勧告が出てたのに勝手に
危険な場所に留まったんだから、自業自得だろ?」というような意見は、
その前提に必ず「イラクの国民がどれだけ困っていようと私達には関係ない」
という利己主義の典型的な主張が存在しています。
自己犠牲の精神が最も尊いもので、全ての人がそうあるべきだ、
とは決して言いませんが、JR大久保駅で線路に転落した男性を救助しようとして
電車に撥ねられ死亡した韓国人留学生の事件や、雲仙普賢岳噴火の際、
報道カメラマンを危険地域まで運んだ際、同僚からの「早く逃げろ。」
との無線に対し、「(カメラマンを残して)自分だけ逃げられない。」
と応答し、結果、カメラマンと共に火砕流に飲み込まれて焼死した
タクシー運転手の話などを聞くにつけ、私たちには、
彼らを少なからず評価せずにはいられない、という心情に駆られる
ことがあるのも、事実なのではないでしょうか。
自らの危険を顧みず、他者の為に尽くす、という行為に出た結果、
尊い命を失った留学生と運転手には惜しみない賞賛が浴びせられ、
生き残った人質事件の被害者には容赦の無い罵声が浴びせられる。
この論理の矛盾ぶり、というより破綻ぶりは、一体何なのでしょうか。
私には、国民心理の深層部分を流れていた利己主義という油に、
政府が故意に自己責任論という火を放り込んだだけのような気がしてなりません。
政府が煽り、国民がそれに釣られる、2ちゃんねるの拡大投影図を見ているかのような
今の日本に、成熟する兆しがあるとは私には到底思えませんね。
>私自身の”自己(の)責任”の考え方は、自らを律する為のもので美意識に近いものだと思っています。
>「自分のケツくらい自分で拭けなきゃカッコ悪いぜ」って感じでしょうか。
>私はバイクに乗っていますが、人里離れた林道などに入る時は、それなりのリスクを覚悟しますし、トラブルに対処できるだけの装備も持っていきます。
ダブリン市民さん自身が、自己の責任に対する考え方は、
一種の美意識だとおっしゃっています。そのような極めて主観的なものを、
全ての国民に半強制的に要求するとしたら、日本政府が民主主義に根ざす政権
であるという自覚は、一体どこへ吹き飛んでしまったのでしょうか。
これは少々、揚げ足取り的なニュアンスを含んでいますので、多くは語りません。
但し、具体的な内容についてはさらに反論する必要があるので言及します。
「リスクを覚悟し、トラブルに対処するための準備」の必要性を
ダブリン市民さんは主張されますが、それではハイジャックやバスジャック、
鉄道爆破テロ等に遭遇した多くの被害者も、「リスクへの覚悟と、トラブルへの対処準備」
が不十分であって、自己の責任に対する自覚がなさすぎた、
ということになるのでしょうか?私の、今年88歳になる祖母などは、
「スペインの事件以来、テロに遭いたくないから電車には絶対乗らない」
と主張しておりますが、これが国民が自らの責任に対してとるべき正しい選択である、
と思われるでしょうか?全員がこんなことを言っていたら、
社会は成立し得なくなり、結果的にテロリストの思惑は成功するのです。
私は、祖母が元気でいてくれるに越したことはないですが、90年近く生きてなお、
そんなにも命が惜しいか、と呆れずにはいられないのですが…(苦笑)。
ちなみに、一応釘を刺しておきますが、テロの可能性がある現場に
近づかない、ということが自己の(トラブルへの対処という)責任を果たす
ことではない、とお考えになるのであれば、残された選択肢はたった一つです。
自己の責任を主張する側にたった一つ残されたその選択肢とは、
「テロリストに対抗し得る武器を持って現地に赴く」というものです。
これが言語道断であるのは、小学生にも判ると思いますが、
これに類する発言を、なんと公明党の神崎代表が記者会見で行っています。
武器を持って「人道復興支援に来ました。」と言って、受け入れられる
と思っているあたりが、自衛隊を武装付でイラクに派遣した与党関係者らしいですが、
これが正当な主張であるはずはないのです。万が一にもこれが正しいのなら、
私たちは飛行機に乗る時にはナイフを、バスに乗る時は文化包丁を、
電車に乗るには防爆服を、地下鉄にはガスマスクを持って乗らなければ
ならなくなるのですから。少々、悪ふざけ染みた発言になってしまいましたことをお詫び致します。
昨夜の長文に輪をかけて文章がさらに長くなってしまいました。
読み手への「配慮が足りない。」と批判されても仕方のないところです。
自身の見解を情熱を持って示して下さった点と、
自作自演疑惑についての関連ニュースへの誘導をして下さった点で、
ダブリン市民さんには深く感謝しております。ありがとうございました。
この自作自演疑惑について、私は疑惑主張派、疑惑反対派の
双方のサイトを昨夜5時間余り読み漁りました。
ついでに編集されていない原版の拘束時の映像をドイツ系の報道サイトで見つけましたので、
疑惑が寄せられている点を加味して、私なりに検証もしてみました…。
結果的には…「どっちもどっち」と言う感じです。
おかしい点が各所にあることは事実ですが、決定的に自作自演だという証拠もなく、
逆に決定的に自作自演ではないという証拠もありませんでした。
どちらの主張も正しいように思えるし、どちらも間違っているように思えます。
この点については、被害者が肉体的・精神的に回復した後、
何らかの回答(あるいは自白)があると思われますので、
どちらかに固執することなく、事態の展開を傍観させて頂こうと思います。
卑怯なように思われるかもしれませんが、確証もなくどちらかを主張する方が、
私としてはよっぽど卑怯なように思われて仕方ありませんから…。
読み手への配慮が足らないことを自覚しておきながら、
また長文を書いてしまいました。学習能力の無さを反省し、
関係各位皆様に深くお詫びを申し上げて、本日の意見とさせて頂きます。
ダブリン市民
ガンダーラ2号さん、コメントありがとうございます。
>いえ、正しくは、政府には近代法の基本原則としての自己責任原則は適用されないのです。
「政府の自己責任」云々は、それを言う人への皮肉めいた言い回しをしただけです。
とはいえ、ご指摘ありがとうございます。
>政府に自己責任原則が適用され得るとしても、自国民の生命・身体・自由・財産を
>保護することは日本国憲法に明記された政府の義務であり、
>自己責任原則における「自らの負うべき相当の責任」に該当します。
はい。そのとおりです。
私が問いたいのは、「自国民の生命・身体・自由・財産を保護する」義務が、無制限に政府にあるのか? という点です。
これに対する私の立場は、「無制限に保護するのは不可能であり、何らかの線引きが必要」というものです。
また、基本的人権で認められた自由が「公共の福祉に反しない限り」という”制限付き”であることも鑑みると、「いざとなれば国がなんとかしてくれる」的考えを助長するのはいかがなものかと思ってもいます。
「自己責任」については、興味深いサイトがあったので、ご一読をオススメします。
社会学的リベラリズム/リベラル派社会学 - SOUL for SALE
http://www.asvattha.net/soul/index.php?itemid=320
私自身は前にも述べたように、個人的なものとして「自己責任」を捉えており、人に対してそれを押し付けようとは思いません。 「カッコわる~」とか言うかもしれませんが、本人がそれでよいと言うのなら「ああそうですか」で終わるだけの話です。
政治家が、公の発言として「自己責任」を発言することの是非についても、あまり興味ないのが正直なところです。
昔、中学生の頃、校則が厳しすぎるのではないかということで、先生と生徒で話し合ったことがありましたが、先生は「おまえたちが問題を起こさずちゃんとしていれば、こんな校則は必要ないんだ」と言っていました。 いい悪いは別にして、何か問題が起これば規制を強化しようとする動きは出てきます。
政治家達の発言は、一種の警告であると捉えてはどうでしょうか?
>しかし、その自己防衛の気風が、必ずしも自主独立の精神に直結するものではない、
>と私は思います。私としては、この自己防衛の気風が直結している先は、
>冷厳なまでの個人主義、自己中心的な利己主義ではないのか、と危惧せずにはいられません。
>その前提に必ず「イラクの国民がどれだけ困っていようと私達には関係ない」
>という利己主義の典型的な主張が存在しています。
それもあるでしょう。 皆、自分の身を守るだけで必死で、余裕がなくなっているのでしょうね。 「自分の身を守るといったって、命の危険にさらされている紛争地帯の人と比べたら」なんて言わないでくださいね。 遠い国の出来事よりも、来月の住宅ローンの返済や、夏のボーナスがいくら出るかの方が切実、というのが普通の人の感覚だと思います。
利己主義と切って捨てるのは簡単ですが、それでは何も変わらないでしょう。
>自己犠牲の精神が最も尊いもので、全ての人がそうあるべきだ、
>とは決して言いませんが、JR大久保駅で線路に転落した男性を救助しようとして
>電車に撥ねられ死亡した韓国人留学生の事件や、雲仙普賢岳噴火の際、
>報道カメラマンを危険地域まで運んだ際、同僚からの「早く逃げろ。」
>との無線に対し、「(カメラマンを残して)自分だけ逃げられない。」
>と応答し、結果、カメラマンと共に火砕流に飲み込まれて焼死した
>タクシー運転手の話などを聞くにつけ、私たちには、
>彼らを少なからず評価せずにはいられない、という心情に駆られる
>ことがあるのも、事実なのではないでしょうか。
私は、所詮人間は利己的な動物であると思っています。
ただ何故か人間は、他人の危機的状況を目の当たりにして、損得勘定とか自分の命とかいうものを飛び越えて助けようとする。 だからこそ自己犠牲の精神は賛美される訳で、それだけを取り出して語っても、あまり意味はないように思います。
昔読んだ『原始思考法』という本に「人が動物の赤ちゃんを見てカワイイと思うのは、カワイイと思う遺伝子を持った人間しか生き残れなかったからだ。カワイイと思わず平気で狩って食べてしまった人間は、食料がなくなって絶滅した」という説がありました。 その伝で言えば、博愛精神を持った人間しか生き残ってないのでしょうね。
>「リスクを覚悟し、トラブルに対処するための準備」の必要性を
>ダブリン市民さんは主張されますが、それではハイジャックやバスジャック、
>鉄道爆破テロ等に遭遇した多くの被害者も、「リスクへの覚悟と、トラブルへの対処準備」
>が不十分であって、自己の責任に対する自覚がなさすぎた、
>ということになるのでしょうか?
それはリスクの度合いによるでしょう。
近くのショッピングセンターへ行くのと、紛争地帯に赴くのとではリスクが全く異なります。 もちろん、ショッピングセンターに爆破予告が出ているのなら、行くのは止めたほうが賢明です。
また、私は不可抗力によるトラブルの責任まで取れとまでは言っていません。 今回の拘束事件は、現地の事情に精通している人なら、十分に予見できた範囲だと考えています。
ちょっとこの辺のガンダーラ2号さんの事例は、極端すぎて議論にならないような・・・
私はシニカルな人間なので、ボランティア活動に対して今ひとつ心からの賛意を抱けません。 「持てる者」だからこそ「持たざる者」に施しが出来るのでしょう? では、「持てる者」が施しつづけて「持たざる者」になってしまったら?
こういう話は釈迦の頃からある話ですが、「自分に出来る範囲のことをすればよい」という答えは欺瞞に思えます。
今回の事件は、本当に色々と考えさせられました。
おかげでたくさんの良いサイト(主張が合う合わないに関わらず)も知ることが出来ましたし。
二十歳の頃に読んでいた、本多勝一氏の著作を読み返したくなりました。 たしかまだ実家に朝日文庫版が置いてあると思うのですが。
ダブリン市民
政府の責任範囲について、私よりも明快に問題提起されている方がいらっしゃいました。 下記のblogのVins-Tさんのコメントです。
http://blogforjapan.jugem.cc/?eid=122#comments
match
えー、あおるつもりで書いた文章に冷静かつ論理的なレスを
つけてもらって結構あせっています(笑)
海外の実例
3人と同時期に拉致されたカナダ人の救出に関してカナダ政府は犯人グループと直接交渉するなど積極的に関わっていました。また、ファルージャでの民間人4人殺害後の、アメリカのリアクションも例に挙げれると思います。(これは彼らが元軍人で軍需産業に関わっていたという事情もありますが)
ただ、ダブリン市民さんがおっしゃったように政府が今回動いたのはマスコミが派手に報道したからかもしれませんね。
例えば、北朝鮮の拉致被害者の救出には当初はほとんど動いていなかったわけだし。
ダブリン市民さんは、政府の在外邦人の救出責任はどのへんで線引きされるべきとお考えですか?
①自衛隊の派遣に賛否両論があった(当初は過半数が反対)
②少なくとも今井君と高遠さんは自衛隊派遣に反対だった
③今井君のお父さんが日教組(週刊新潮報道)
といった状況があり、特に今井君のお父さんの「自衛隊撤退を!」との発言がお涙頂戴に乗っかった政治的発言ととられバッシングを浴びたのだと思います。
拘束事件の翌日にひらかれた日比谷の反戦集会で、福島瑞穂の第1声が「私は今、ひどい気分です!」と叫んだのには思わず
「お前の気持ちなんてどうでもいいよ!」と僕も突っ込みを入れてしまいました。
僕個人としては、犯人グループの特定もすんでいないあの時点で「撤退する理由はない」と言われたら、家族が感情的になるのは仕方がないかなと思っています。
ただ、たしかにもうちょっとうまいやり方があったのかなとも思います。
それから人質の会見をやらないのはどうやら政府側の意向らしいですよ。http://www.asahi.com/national/update/0419/017.html
彼らの経験は、ぜひ、自分の言葉で語っていただきたいですね。
ダブリン市民
matchさん、コメントありがとうございます。
>ダブリン市民さんは、政府の在外邦人の救出責任はどのへんで線引きされるべきとお考えですか?
そうですねぇ。 私としては現在の渡航に関する勧告の延長として、「政府として保護義務を果たせない」という指定地域を設けてはどうかと思います。 それでも行くというのは、渡航の自由を保障する以上、仕方ありません。 いわゆる免責ですね。
その場合でも、家族から要請があった場合や、今回の人質事件のように犯行声明があって犯罪に巻き込まれたことが明確な場合は、当然政府は救出の努力をします。 また、救出費用については一部実費での負担となります。
家族の反応については思うことはありますが、同情すべき点もあるので、悪いと決めつけるつもりはありません。
家族の反応や経歴が、政府の態度にいくらか影響を与えたのも否定できないでしょうね。
ただ、人気取りだけを考えれば、小泉首相は得意のパフォーマンスで家族と会って、元気付けたりした方が良かったかもしれません。 これを指して「総理の資質に欠ける」と断じる人もいます。
http://homepage.mac.com/naoyuki_hashimoto/iblog/C1570102516/E311396474/index.html
私としては、家族と会うことで国益などTotalな面での判断に曇りが生じる可能性があるのであれば、非情と言われようが会わないというのも一つの考え方だと思います。
「家族と会ったくらいで判断が曇るようでは・・・」とおっしゃる方は、多分神の如き精神の持ち主でしょうから、もはや何も言いません。
「泣いて馬謖を切る」ではありませんが、リーダーというものは、時に非情な判断をせざるを得ない場合があるのです。
ところで、人質の会見が行われない理由ですが、先日から一つの妄想が頭の中に浮かんでいます。 それは「3人が何らかの形で犯人と共謀していた(あるいは犯人側に他の日本人が関与している)為、政府があえてマスコミからシャットアウトしている」という説です。
他のエントリーで私は「本当に拘束されている(自作自演でない)ことを望む」と書きました。 これだけ世界的に騒がれた事件が、実は狂言だったというのは、日本国として大変不名誉なことです。 それは政府にとって、3人の責任追求なんかよりはるかに重大で、その為にうやむやのままに幕引きをしようとしているのではないか・・・ 事なかれ主義のお役人や政治家なら考えそうなことです。
最初の3人とあとの2人とで、政府の対応や救出後の人質たちの様子があまりに違いすぎるのを見ると、そういう疑念が拭えません。 そうでないことを祈っていますが。
match
ダブリン市民さんへ
お返事ありがとうございます。
>「政府として保護義務を果たせない」
なるほど。。。ただ、政府も国民保護に結果責任があるわけで
はなく相当の努力義務があるってだけですよね?
だから北朝鮮の拉致問題でも話題になる前は「努力している」
の一言でかたづけられていたわけでしょう?
だからわざわざ線引きをする必要はないと思います。
ただ、助けようと努力するのは、本来ならどの事件でも
当たり前なわけで、費用負担とか、政府に迷惑をかけてという
のは筋違いです。
自作自演ですか。。。
日本国民以外も多数拘束され、実際に殺されたりしているんだから、
まぁ、人質になる、拘束されるっていうこと事態は全然、ありえる話ですよね。
その上で自作自演だとしたら、アラブ人武装勢力と人質3人の合同作業?
もしくは宗教者委員会もグル?可能性は0ではないけど、ちょっと具体性に乏しくないですか?
それから前も書き込みましたが、「やってない」ことの証明ではなく「やった」ことを証明しないと。現時点では決定的な証拠は出てきていませんよね?
それから、政府がやらせだと知って情報を隠すというのは現実的ではないのでは?
別に小泉は彼らの行動に責任を持つわけでもないんだし、
むしろ、自衛隊撤退論が収束するから彼らにとって好都合じゃないんですか?
それにしても、勝谷や産経はこれが自作自演でなかったらどう
責任とるんでしょうね?自作自演だった場合、3人も大変なことになるでしょうけど。
ガンダーラ2号
どうもこんにちは、ご返答感謝致します。
最近ここで意見を述べさせて頂けるのが楽しくて仕方ありません(笑)。
とはいいつつ、昨日は疲労で頭が回りませんでしたので、
遅ればせながら今から書き込みさせて頂こうと思います。
>そうですねぇ。 私としては現在の渡航に関する勧告の延長として、
>「政府として保護義務を果たせない」という指定地域を設けてはどうかと思います。
>それでも行くというのは、渡航の自由を保障する以上、仕方ありません。いわゆる免責ですね。
大変失礼ですが、これを読んで第一声に思わず「おいおい」と言ってしまいました。
「保護義務を果たせない」ということは政府が政府として機能していません、
ということを自ら証明するものです。
今の日本政府が政府として正しく機能している、
などというのは感情の上では賛同しがたい部分ですが、
思考の上では賛同されなくてはなりません。そうでなければ、
その政府を民主的に正当な手続きに則って選出した、
我々国民自身が内外から批判されることになります。
「あんなどうしようもないヤツラに舵取りさせるのが日本国民なの?」
と世界中から白眼視されそうです。日本の国際的評価は理性と感情の面で、
大きな離反を呼びそうです(理性的評価も余り芳しくないですが)。
ともかく、政府が義務を果たせないのであれば、国民にも義務を負う
理由などなくなります。納税滞納遅延者が泣いて喜ぶでしょうね。
「政府は果たすべき義務を果たすことで権限を行使し、
国民も果たすべき義務を果たすことで権利を得る(一部例外有)」
という、国家の最も基礎的なサイクルが一瞬にして崩壊しかねません。
私としてはそのような線引きは論外だと言わざるを得ないですね。
それなら渡航禁止の方がまだマシかとさえ思われてしまいます。
どちらにせよ憲法との整合性が取れないでしょう。法制化するには。
>私が問いたいのは、「自国民の生命・身体・自由・財産を保護する」義務が、無制限に政府にあるのか?という点です。
>これに対する私の立場は、「無制限に保護するのは不可能であり、何らかの線引きが必要」というものです。
>また、基本的人権で認められた自由が「公共の福祉に反しない限り」という”制限付き”であることも鑑みると、
>「いざとなれば国がなんとかしてくれる」的考えを助長するのはいかがなものかと思ってもいます。
前回お話しした、政府に自己責任がない、という私の主張は、
その大筋を認めて下さっているようですね。であるならば、
政府が国民の法益(生命・身体・自由・財産です。面倒なので置き換え。)
に対して、原則的には無限の保護責任を負う、というのは当然のことです。
原則、と言うのは例外があるからですが、具体的には刑法分野の話
になりますので、ここではあえて触れません。要するに犯罪を犯すのでない限り、
国民の法益は国家によって無限に保護されなければなりません。
「公共の福祉」という制限付き、とおっしゃいましたが、
公共の福祉は制限規定ではありません。公共の福祉とは、
「人権相互の矛盾衝突を調整するための実質的公平の原理」であり、
政府や世論の流れに反する行動の自由を制限するための
ものであってはならないのです。「公共の福祉」という言葉は、
「自己責任」同様、国民もマスコミの多くも本来の意味を正しく
理解しているとは言い難い言葉ですので、注意が必要です。
ついでに申し上げますと、「いざとなれば国がなんとかしてくれる」
という考えは、ある面においては大変重要な考えだということが出来ます。
すなわちそれは、母国と母国の政府を信頼する、という前提の上にのみ、
立ちうる考えだからです。無論、無条件で頼るには余りに頼りないですし、
政府への信頼ではなく、それ自体が前提になるようだと、自主独立の精神
などというものが育たなくなってしまうのでまずいとは思いますが、
少なくとも今回の人質事件においては、被害者本人や遺族の感情に
「国がなんとか助けてくれる。」という希望はあって然るべきだと思います。
>昔、中学生の頃、校則が厳しすぎるのではないかということで、
>先生と生徒で話し合ったことがありましたが、
>先生は「おまえたちが問題を起こさずちゃんとしていれば、こんな校則は必要ないんだ」と言っていました。
>いい悪いは別にして、何か問題が起これば規制を強化しようとする動きは出てきます。
>政治家達の発言は、一種の警告であると捉えてはどうでしょうか?
中学時代の先生には、「それは詭弁だ。」と言ってあげて下さい(笑)。
ルールが重要視される最大の理由は、「問題を問題として規定している」
ところにあるのです。そもそも、ルールがなければ問題など存在しないのですから。
その先生がおっしゃる「問題」というのは、おそらく先生方の中の倫理的常識か、
さもなくばその先生本人の倫理観を基準に構成されたものなのでしょうが、
その「問題」を生徒が起こそうが起こすまいが、ルールはいずれにせよ必要なのです。
「何が問題で、何をしてはいけないか。」が明確に規定されているからこそ、
ルールを守ることで問題を起こさないようにしよう、という理性が
働くのであって、その先生のおっしゃるところは、手段と目的が
転倒しています。まぁ、権威を振りかざす教員が純粋無垢の中学生
に反論するには、その程度の詭弁で十分だったのかもしれませんが…。
余談についつい余談を返してしまいました。ごめんなさい。
>遠い国の出来事よりも、来月の住宅ローンの返済や、夏のボーナスがいくら出るかの方が切実、というのが普通の人の感覚だと思います。
これは比較の問題ではないのですが、先ほどの「法益」の並びを見て下さい。
「生命・身体・自由・財産」となっていますね。これはそのまま、
刑法上、「最悪の場合守られるべき法益の価値基準」なのですが、
ダブリン市民さんのおっしゃる通り、日本の人が直ちに、
保護を必要としている法益は「財産」です。そして、イラクの人が直ちに、
保護を必要としている法益は「生命と身体」です。
法理念の価値基準に従えば、イラクの人々の方が、より重大な
法益侵害の危機に晒されている、ということは証明出来るのです。
但し、これがすなわち保護の優先順位に直結するものではありません。
法益は全て無制限に国家によって保護されなければならないものですから、
「イラクの人々に比べれば日本人なんて…」という意見は見出しえないものです。
>利己主義と切って捨てるのは簡単ですが、それでは何も変わらないでしょう。
私には、利己主義であることを指摘しなければ、まず変わるかどうか、
の問題の発起点すらなくなってしまうようにしか思えません。
>何故か人間は、他人の危機的状況を目の当たりにして、
>損得勘定とか自分の命とかいうものを飛び越えて助けようとする。
>だからこそ自己犠牲の精神は賛美される訳で、
>それだけを取り出して語っても、あまり意味はないように思います。
これは私が生命の危機に晒された非常に重大なケースしか挙げなかった
ことがまずかったのかもしれません。それでは別のケースを挙げてみましょう。
満員の電車の中で、自分の座っている席の前におばあさんが立ったら、
普通はそこでおばあさんに席を譲るのではないでしょうか?
これも小さな自己犠牲のケースではありますが、
生命の危機に逼迫しているわけではありませんね?
とっさに「損得勘定とか自分の命(法益)とかいうものを飛び越えて」
席を譲るわけではありませんね?これこそが、社会において
私達が持つべき協調性や相互扶助の理念なのではないでしょうか?
そして、イラクでボランティア活動に専念していた民間人の方々は、
まさにこの理念を具体的に実践していたのではないでしょうか?
自己犠牲には様々なケースがあると思いますが、その全てが、
基本的には人間の感情に素直に受け入れられるものです。
私としてはそういうことが言いたかったので、そうであるなら、
大久保駅の留学生の例や普賢岳の運転手の例は多少、
趣きを異にするものであったかもしれません。申し訳ないです。
>「人が動物の赤ちゃんを見てカワイイと思うのは、
>カワイイと思う遺伝子を持った人間しか生き残れなかったからだ。
>カワイイと思わず平気で狩って食べてしまった人間は、
>食料がなくなって絶滅した」という説がありました。
この話、初めて聞きましたが面白い考え方ですね(笑)。
ただ、これは本当に学説なのでしょうか?学説として唱えるには、
どうも妄想的要素が多いような気がします。
私が面白いと思うのは、これが学説ではなく格言や訓示であった場合です。
本質とか真理とか(私はそんなもの信じてませんが)、その一片を
我々に示唆するものとしては、非常に教義的な面白いものだと思います。
>それはリスクの度合いによるでしょう。
>近くのショッピングセンターへ行くのと、紛争地帯に赴くのとではリスクが全く異なります。
リスクの度合いによるとおっしゃいますが、それならもう高層ビル
にオフィスを持つ会社の社員は飛行機が激突してくるリスクを勘案して
出社しなくてはなりませんし、電車もそう、飛行機もそう、地下鉄もそうなんです。
一度ならずテロの標的になったのは、紛争とは全く関係のない、
ごく普通の平和な場所でしたね。我々は既にそのことに気づいていますが、
今から自分の行くスーパーマーケットがテロの標的になるかもしれないというリスクに、
何らの対処も準備もなく毎日買い物に行きますね?
過去の情報から現在及び未来の危険を予見するのであれば、
紛争地域も近所のスーパーも危険なのには変わりありません。
そこで非常に残念ながらテロの被害に遭ってしまった方々に、
あなたは「リスクを察知して対処または回避する責任を怠った」
と批判出来るでしょうか?そこに帰責すべき正当性を主張出来るでしょうか?
私は、紛争地域と近所のスーパーに赴くリスクに違いがあるとしたら、
それは危険発生の頻度によるものだけだと考えます。
その点で言えば、少なくとも最初に人質になった3人は最も危険な地帯(ルート)
は避けて通る対処をしていました。これ以上の責任を彼らに負わせることは、
リスクコントロールの観点から見ても妥当ではないと考えます。
>私は不可抗力によるトラブルの責任まで取れとまでは言っていません。
不可抗力によらないトラブルがあったらご教授願いたいものです。
>「持てる者」だからこそ「持たざる者」に施しが出来るのでしょう?
そもそも、ボランティア活動の捉え方が、私とダブリン市民さん
とでは大きく異なっているようですね(どちらがいいとは言いません)。
私は、上から下に施すものがボランティアだとは考えていません。
これは私が人生で最もボランティアに積極的に関わっていた中学時代から
私の中で必ずこれだけは守ろうと決心してきたものなのですが、
端的に言えば「ボランティアとは助け合いの精神」であって、
「助けてあげる精神」ではないというのが私の考えです。先ほども述べましたが、
相互扶助や社会的強調が具現化されたものがボランティア活動であって、
強者が弱者に施すのはボランティアではありません。
多くの日本人が、ダブリン市民さんのように、ボランティアを「施し」
として捉えていると思います。私はダブリン市民さんを含めた多くの方々に、
「ボランティアとは何か?」についてもう一度考えてみて欲しいと思います。
もっとも、これらは観念の話であって、論理的に正当性を主張出来るものではありません。
いえ、主張しても構わないのですが、証明が出来ないのです。
ですから、括弧書きにした通り、どちらが正しい、というものではないのですが、
感情的にどちらがより素直に受け入れられるか、を考えて頂けたらと思います。
偶然にも、私は今、20歳の学生で、本多勝一の著作が手元にあります(笑)。
親父が20年前から本棚にとっておいたもののようで、今年の春休みに
実家に帰省した際、ひょんなことからこの本を読むことになりました。
「事実は小説より奇なり」とはこういうことを言うんでしょうかね?
それほどの偶然でもありませんが、少しの驚きと嬉しさがあったことを、
余談ながらお伝え致して、文章を閉めさせて頂きたいと思います。
P.S.ダブリン市民さんの「本当に拘束されていることを望む」気持ちは、
私も全く同様です。あれが狂言であったなんて、信じたくはない、
というのが正直なところです。
しかし、その可能性も今だ否定しきれていないわけですから、
ダブリン市民さんの考えられたような仮説は私も思い浮かべてしまいます…。
そこで、ふと思ったのです。これが「万が一」にも狂言であったとしたら、
具体的にはこの人達は何の罪になるんだろうか?と。
大学での専攻が刑法分野なので、すぐこういう発想が出てくるわけですが、
手元の六法をめくりつつ、構成要件該当性を検討してみたところ、
私の予想では、「万が一」あれが狂言であった場合に該当するのは、
刑法第95条【公務執行妨害及び職務強要】ではないか、ということになりました。
曰く、公務執行妨害の構成要件は以下の通りです。
「公務員が」「職務を執行するに当たり」、「これに対して暴行又は脅迫を加えた者」
は、3年以下の懲役又は禁固に処する。
私が見た中ではこれが最もすんなりと適用されるように思えましたね。
(「万が一」狂言であったとしたら)日本政府を手玉に取って世間を騒がせた、
ということになるので、ものすごく重大な罪が科されるように思えるかもしれませんが、
実際はこんなところなのかもしれませんね。
まだ疑惑の段階でこんなことを言うのは先走り過ぎだと判っているのですが、
少々、知的好奇心をくすぐられましたので、ご報告申し上げました。
ガンダーラ2号
たびたびすいません。上の発言内容の中に返答を抜かしている場所がありました。
余談についつい夢中になって本来、返すべきところがおろそかになってました。申し訳ないです。
>いい悪いは別にして、何か問題が起これば規制を強化しようとする動きは出てきます。
>政治家達の発言は、一種の警告であると捉えてはどうでしょうか?
これは言い換えるならば、校則にも書いていないようなルールを、
先生が生徒に「守れ」と指示するようなものです。すなわち、
今現在、政治家達の発言内容には、法的根拠による正当性が無いのです。
無い、というよりは憲法理念という最も大きな法的根拠に反する、
と言うべきでしょうか。何度も言いますが、政府が国民に対して、
「自分の法益は自分で守って下さい」などと言うことは、憲法理念に違反します。
そのための法制化を実行したとしたら、それは理念違反に留まらず、
直ちに「憲法違反」になるでしょう。それだけの危険な発言
(私は危険発言とか危険思想とかいう言葉が大嫌いですが)
を民主主義によって正当に選挙された政治家が公人として、しているのです。
このことに危機感を抱けないとしたら、いや実際に抱けていないからこそ、
私はものすごく不安なのです。日本が世界で唯一と言ってもいい位、
他国と決定的に違う点をご存知でしょうか?
国名に政治体制が明記されていないのです。我が国だけは。
被害妄想だ、誇大妄想だ、と言われるのは承知の上で申し上げますが、
知らないうちに天皇制が復活したり、その他の独裁体制が成立することも、
他国に比べて行いやすいのが我が国なのです。少々、話が逸脱してしまいましたが、
憲法理念に反し、さらに国際世論を見てもわかる様に、
一般的な感情の面からも同意が得られ難い批判的発言を、
政府の公人が平気で出来てしまい、さらにそれを警告として
国民が認識する(冒頭の中学の例で言えば、生徒が無条件でその指示に従う)ような現状は、
私に言わせれば異常としか言いようがありません。
不備がありましたことをお詫び申し上げます。
ダブリン市民
matchさん、コメントありがとうございます。
私は3人の事件が「自作自演」だと主張しているのではありません。 それを証明しようとも思いません。 その可能性がゼロではないと思っているだけです。
>それから、政府がやらせだと知って情報を隠すというのは現実的ではないのでは?
>別に小泉は彼らの行動に責任を持つわけでもないんだし、
>むしろ、自衛隊撤退論が収束するから彼らにとって好都合じゃないんですか?
ですから「妄想」と書きました。
ただ、政府が3人に口止めしているとしたら、単に「政府の政策に反対するコメントをさせない」というのが理由というのは弱すぎると思いませんか?
既に3人のバックグラウンドは知られている訳ですし、「悲劇の主人公」として国民から同情されているならともかく、バッシングの対象にまでなっています。 政府に悪態ついたからって、バッシングが激しくなることはあっても、政府が非難されることは少ないのではないでしょうか。
まあ、「トンデモ説」の一つだと思って聞き流してくださいませ。
ダブリン市民
ガンダーラ2号さん
>大変失礼ですが、これを読んで第一声に思わず「おいおい」と言ってしまいました。
>「保護義務を果たせない」ということは政府が政府として機能していません、
>ということを自ら証明するものです。
>政府が国民の法益(生命・身体・自由・財産です。面倒なので置き換え。)
>に対して、原則的には無限の保護責任を負う、というのは当然のことです。
ではガンダーラ2号さんは、地球上のどこでも、あるいは大気圏外のどのような場所であっても、政府が保護義務を果たすことは可能だとおっしゃる訳ですね。
私にはとても可能だとは思えませんが。
>ついでに申し上げますと、「いざとなれば国がなんとかしてくれる」
>という考えは、ある面においては大変重要な考えだということが出来ます。
>すなわちそれは、母国と母国の政府を信頼する、という前提の上にのみ、
>立ちうる考えだからです。
そうとばかりは言えません。
「溺れる者は藁をもつかむ」ではありませんが、税金や国民年金を滞納していようが、どれだけ政府の政策に反対していようが、苦しくなったら使えるものは何でも使うでしょう。 それが人間です。
>>遠い国の出来事よりも、来月の住宅ローンの返済や、夏のボーナスがいくら出るかの方が切実、というのが普通の人の感覚だと思います。
>ダブリン市民さんのおっしゃる通り、日本の人が直ちに、
>保護を必要としている法益は「財産」です。そして、イラクの人が直ちに、
>保護を必要としている法益は「生命と身体」です。
誤解させてしまいましたが、私は別に「生命」と「財産」のどちらが大事かという意味で書いたのではありません。 単に、自分の生活の問題だけで手一杯だといいたかっただけです。
>満員の電車の中で、自分の座っている席の前におばあさんが立ったら、
>普通はそこでおばあさんに席を譲るのではないでしょうか?
私は(今にも倒れそうという場合を除き)譲りません。 なぜなら私が乗っている電車は急行であり、各駅停車の電車なら余裕で座れるからです。 あるいは始発駅から乗るのであれば、今ホームに来ている電車の次の電車を待てば、座っていくことができます。
私は「何かを犠牲にせずには、何も得ることが出来ない」と考えています。 体が辛くて座りたいなら、目的地に着くのが遅くなるのは我慢しなければなりません。
まあ、一般化するにはちょっとムリのある話ですけどね。
>リスクの度合いによるとおっしゃいますが、それならもう高層ビル
>にオフィスを持つ会社の社員は飛行機が激突してくるリスクを勘案して
>出社しなくてはなりませんし、電車もそう、飛行機もそう、地下鉄もそうなんです。
同じ高層ビルでも、過去にも爆弾テロが起こったことのあるニューヨークの世界貿易センタービルと、ニューヨークの他のビルとではリスクの度合いは異なります。 当然ながら浜松町の世界貿易センタービルとも比べようがありません。
ガンダーラ2号さんの議論は、リスクを定性的に捉えているように思えます。 「イラクは非戦闘地域か」の論争ではありませんが、もっと定量的に捉える必要があるのではないでしょうか。
テロに限らず、道を歩けば交通事故に遭う可能性もあるし、通り魔に遭うかもしれません。 それらを恐れて、家に閉じこもるのも一つの考え方ですが、当然メリットとデメリットがあるので勘案しなければなりません。
>不可抗力によらないトラブルがあったらご教授願いたいものです。
自分から進んでトラブルに巻き込まれる場合です。 この場合、トラブルに巻き込まれるのが目的という場合もあるでしょうし、トラブルの可能性を無視して巻き込まれる場合もあります。
”ボランティア”でも”施し”でも、私にはあまり違いはありません。
西欧でのボランティア精神というのは、多分に宗教的な影響があると思います。 中国やインドでも、貧乏な人を助けるのは功徳を積むと考えられていますが、これは現世や来世でのご利益を期待している部分があるでしょう。
博愛精神も自己犠牲もそうなのですが、人間性の自然な発露として見た場合は素直に賞賛できるのですが、いざ主義主張として聞くととたんに胡散臭いものに感じるのです。 齢30後半ともなると、人間ここまで心が汚れるということですが(笑)、このしっくりこない感じは昔からあったような気がします。
>ルールが重要視される最大の理由は、「問題を問題として規定している」
>ところにあるのです。そもそも、ルールがなければ問題など存在しないのですから。
確かにルールがあって初めて正否が判別できるのですが、「問題となる事象」はルールがあるかどうかに関わらず存在します。
先日、自動回転ドアによって男児が死亡するという痛ましい事故がありました。 自動回転ドアには、国の安全基準がなかったそうです。 あの事故には、以前に同様の事故があったとか、センサーの感度を下げていたとか、メーカーやビル管理会社の落ち度は多々あるのですが、安全基準がなかったのですからメーカーの責任だけを追及することは出来ないでしょうね。
私は法学には詳しくありませんが、ルールというのは万有引力の法則のように何もないところに最初からあったわけではないと思います。 大抵、何かきっかけとなる事象があるものです。 交通事故の現場に横断歩道が出来るようなものですね。
PL法と同じで、責任を取りたくないから、どんどんとルールを作って免責事項を増やしてゆくのですよ。
>これは言い換えるならば、校則にも書いていないようなルールを、
>先生が生徒に「守れ」と指示するようなものです。
今の校則がどういう内容かわかりませんが、20年以上前の私が通っていた頃は、非常にこと細かく規定されていました。 具体的には失念しましたが、特に制服に関する規定が多かったように思います。
これらは私の先輩達が行ってきたことの結果生まれたものです。 学校指定の制服を買って、そのまま着ていれば何の問題もなかったのですが、女子は引き摺るようにスカートを長くしていましたし、男子は”ボンタン”や裏地に龍や虎の刺繍が入った学ランを着ていました。 大人の「高校生はこうあるべき」という基準から逸脱する度に、校則は厳しくなっていきました。
一般社会での「こうあるべき」に相当するのは、世間の良識でしょうか? 裁判の判決でも「良識に照らし合わせて」というフレーズは聞くことがあります。
「書いてないルール」を守らせるのはおかしいと言うのは簡単ですが、この「良識」というのはとても強力な制度です。 自由を得たいなら、リスクを冒して制度の外に立つしかないのです(なーんて、ちょっと村上龍の受け売り)。
ダブリン市民
そうそう、もう一つ。
”政府が国民の法益に対して、原則的には無限の保護責任を負う”ということですが、「そんなのは余計なお世話だ」という人もいる訳です。
VIDEONEWS BLOG( http://www.videonews.jp/ )の神保さんの話ではないですが、NGOやジャーナリストとして活動する場合には、国の保護なんて邪魔という場合もあります。 東長崎機関( http://2.pro.tok2.com/%7Ehigashi-nagasaki/index.html )の人たちもそうかな?
無限責任を盾にされると、かえって行動が阻害されそうで、私だったら御免蒙りたいな。