たい焼き1日450個で“下関一”稼いだ女:日経ビジネスオンライン
「商いは牛の涎といいますが、日銭が入る商売は止められません、たかが、たい焼とお思いでしょうけど、月に80万円を稼いだこともあります、それから、お正月飾りとお餅を売る3日間で200万円の売り上げがありました、正月明けにお金を銀行へ持って行くと、山口銀行の支店長さんが、えらいですね1人でこんなに稼ぐ人はあなただけですね、と仰ってくださいました、夏は、盆提灯を売ります、ほんの数年前まで、ひと夏に1年分の商売をしていました、5、600万円を1カ月で売ってきたんです、今年はどうしたことでしょう、ぱったり、売れません」
下関に生まれ育って20年過ごしましたが、恥ずかしながら村竹商店の存在は知りませんでした。 我が家では、たい焼きよりも「ひら岡」の大判焼がポピュラーでしたから。
それに長門市場は30年前だって、あまり子供が好んでいくところではなかったですからね。
でも年末になると祖父のお供で、正月用の鰤やお墓に飾る樒(しきみ)を買いに行ったりしました。 そういう時期はまだ活気がありましたが、今は年末でも寂しいものだそうです。
この方は、自分の母より少し年上ですが、ほぼ同世代と言ってもいいですね。
「私は長府の農家の出です、乃木大将の生家があり、高杉晋作が挙兵した功山寺があります、母親は躾の厳しい人でした、親一人子一人の家に嫁ぐことに初めは反対でしてね、見合いを仲介した叔母の顔を立てて、本人同士に任せようということになり、仕切り直して3度目に会った時に『慕情』という映画を観ました、その後、洋画のとりこになっていった記念すべき映画です」
「4度目の面会が結婚式でした。私は25歳でね、5歳上の夫の基志(もとゆき)は甲子園に出場した高校球児だったんです、下商(下関商業高校)の第2期黄金時代のレギュラーでした…とても働き者だったけどね、でも36歳で病死しまして、それからは、がむしゃらに働くしかなったんです、たい焼に助けられました、ほんとうに」
自分の両親も、結婚前に「007」などの洋画をよく観に行ったと言ってたっけ。
当時も女手一つで子供を育てていくのは大変だったでしょうが、今に比べれば社会に活気があった分だけまだマシだったかもしれないですね。
そうそう。 こんな感じ。 もうちょっと駅に近い方へ行けば、自称「リトル・コリア」のグリーンモール商店街に繋がるんですが。
今度帰郷したら、ぶらぶら散歩してみようかな。
ところで、記事中にある下関と長崎の関係ですが、かつての下関は漁業基地としても海運の中継所としてもすごく活気のあった港町で、長崎の船乗りが数多く移り住みました。 漁船の船長をやっていたウチの祖父(五島・福江島出身)もその一人でした。
三方を海に囲まれ、坂が多い旧市街は、どことなく趣が長崎に似ているかもしれませんね。 長崎本町なんていう地名もありますし。