「Please do not touch」

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時代を駆ける:有森裕子/3 高地練習に耐え、五輪で銀 - 毎日jp(毎日新聞)

<日体大を卒業後、リクルートに入社。小出義雄監督に直談判して入部を認めてもらった>
 
私は基本的に(陸上競技界では)“アウトオブ眼中(眼中にない)”でしたから、自分から寄っていってアピールしない限り、見てもらえない存在。そのへんは人の倍以上必死でした。ほかの子は呼ばれてきたから、そうじゃない私は誰よりもアピールし、誰よりも必死になってやらないと、物事は回っていかなかったんです。(中略)
 
小出監督とは、人間としては合わないところがいっぱいありました。でも私は小出監督と人間としてつきあうためにリクルートに入ったわけではありません。監督として、選手として、お互いがどうあればいいかということだけ考えればいいと思っていました。練習が終わって、残りの生活では「Please do not touch(かまわないで)」という感じでしたね。
 
高橋(尚子選手)がシドニー五輪(00年)で金を取った時、私には無理だと思いました。あのパターンでしか金メダルが取れないとしたら、私はいらないとさえ思いました。高橋にとっては監督がすべて。トレーニングから生活からすべてにおいて監督に合わせた。それで取れるんですよ。あれはあれでいい。もともと彼女は褒めないとダメなタイプで、監督もそれを徹底的にやった。私みたいな難しい人間がいた後で、やっと巡り合った“集大成”が高橋だったんです。(中略)
 
<バルセロナ五輪はワレンティナ・エゴロワ選手(EUN=当時)との激しい戦いの末、2時間32分49秒で銀メダルに輝いた。日本女子陸上界の五輪メダルは同郷の人見絹枝さん(アムステルダム大会八百メートル)以来64年ぶり。メダルを獲得した8月2日(日本時間)はくしくも人見さんの命日>
 
ある意味、私たちは国のためなんて言わなくていい、自分のために頑張ると言っていい、そういうことが通る時代でした。人見さんがやってきた時代は全然違う。自分の意思で結果を求めたり、表現することは非常に難しかったと思います。自分の人生だけ考えていいということは。

有森裕子こそ、まさにスポーツ界の「新人類」であったと、あらためて思いますね。
普通は「直談判して入部を認めて」もらい、五輪でメダルを取るまで成長させてもらった監督に対して、「Please do not touch」とは思わないですよ。 たぶん「恩師」とも思ってないんじゃないでしょうか。

「自分のために頑張る」というのも、有森とか千葉すずあたりが言い出した記憶があります。 ただ、今の若いアスリートはぐるっと一回りして、日の丸をつけて戦うことについて意気に感じる選手が多いような気がします。