あるサラリーマンの転落と再起

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もうひとつの風景:2010家族点描/5 再起を誓い、運転手に - 毎日jp(毎日新聞)

高校、大学は夜間に通い、東京の精密計器メーカーに就職し、栃木県佐野市の工場で働いた。地元百貨店勤務の5歳下の妙子さんと結婚し、娘2人を授かった。42歳で念願のマイホームを4800万円で買い、翌年には課長に昇進。「公私ともに充実していました」。85人の部下を抱え、年収は約1200万円になった。
 
歯車が狂ったのはバブル崩壊から。会社の業績が落ち込み、2000人中800人をリストラすることになった。上司の指示で退職を渋る部下の説得にあたり、「おれも後からいくから」と一緒に泣いた。52歳で退職した。食品会社に再就職したが、収入は3分の1になった。
 
3年後、深夜に妙子さんが「胸が苦しい」と訴えた。娘2人は独立して夫婦2人暮らし。おんぶして近くの総合病院に運び込むと、集中治療室に移された。医師は「心臓が弱っています。もって数日です」。
 
3日後、50歳で死去。妙子さんの最後の言葉は「幸せでした。ありがとう」だった。
 
「妻に心労をかけることも多かった。思い出ばかりの風景がつらかった」。佐野市の自宅を処分して住宅ローンを完済し、逃げるように上京した。温泉施設、居酒屋などの職を転々。マンション暮らしだったが、知人の借金の連帯保証人になり、ローン会社の取り立てが押しかけるようになった。行きついた先が路上生活だった。
 
山梨県のビル解体現場で住み込みもしたが、重労働に耐えられず2カ月で逃げ出した。24時間営業のハンバーガー店では100円のコーヒーとハンバーガーで朝まで居座ったが、両足がむくみ、痛みで歩けなくなった。保険証はなく医者に行くこともちゅうちょした。

常識からしたら、「なんでそこまで」と思いますが、路上生活者の多くに精神疾患が見られるという記事もありました。
正気を失っていなければ、この寒空で路上生活なんてできないでしょう。