人材派遣会社に登録して昼間は日雇い派遣で働き、夜は製本会社のアルバイトとなって、時給の高い遅番で働いた。日雇い派遣で月20万円、製本会社で月10万円の合計30万円が健司さんの収入となった。健司さんは「今時、職探しをしても月給30万円の正社員なんてない。正社員になっても、業績が悪化すれば明日の雇用がない不安は同じ。だったら、日雇い派遣を利用した方が賢いのではないか」とさえ思った。
派遣会社に登録してから、最初は時給800円の仕事が紹介されたが、無遅刻無欠勤で派遣先の社員から気に入られると、時給の高い仕事が回されるようになった。
実際、日雇い派遣のある営業職は「日雇い派遣に集まる人材には、遅刻の常習犯、無断欠勤する人が多く、挨拶もできない人が少なくない。全員がそうとは言わないが、社会人としての最低限のマナーがあるだけで安心してしまうほど」という。ここに自分の活躍する隙を見た健司さんは、缶ジュースの製造現場、加工された肉のパック詰め、焼肉店でのウエイター、機械の検品、肉の卸売業者など、何でも仕事を受けた。
そのうち、派遣元の営業マンからは「レギュラー入れる?」と、半年以上の比較的安定した契約が見込まれる時給1000円の仕事を紹介されるようになった。健司さんは「派遣は確かにいつ仕事がなくなるか分からない不安があるが、派遣元から評価を得られることができれば、仕事自体は途絶えない」と確信した。
うーん。 すごい。
そういう状況だったから、ということなんでしょうが、いま自分が同じような境遇だったら、こんなに頑張れるかな?
もちろん犠牲になるものもあります。
健司さんはその後、妻とすれ違いの生活が影響して、結婚生活わずか1年で離婚を余儀なくされた。製本会社での仕事も、アルバイトですら人員が余るようになり完全に退職。マンションを引き払ってシェアハウスに引っ越した。
離婚のダメージは大きく、強い喪失感に襲われた。移ったシェアハウスは、閉鎖された工場が改装されたところで、事務所だった部屋がパーテーションで2畳分づつに区切られ、そこに30~40人が住む。住み始めてすぐ埃っぽさに喉を痛めた。部屋には鍵がない。シャワーを浴びる時も眠る時も、全財産をリュックサック1つにまとめ、肌身離さない。そんな生活は慣れていたが、今回ばかりは、「死んでしまいたい」とも思った。
しかし、支えになったのは地域の仲間だった。健司さんは小・中学生の頃から吹奏楽部で、社会人になってからは地域で小学生に音楽を教えるボランティア活動をしている。そうした活動を通した仲間がいることが、絶望した中での唯一の救いだった。健司さんにとってのセーフティネットは、今でこそ一般的には崩壊したはずの「地域」だった。
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現在、労働者派遣法は製造業派遣や、2カ月未満の登録型派遣の禁止する方向で法改正の議論がされている。リーマンショック以降の製造業における「派遣切り」横行で、雇用の現場に大混乱を招き社会問題となったことで、急速に法改正の議論が高まった。
しかし、健司さんは「日雇い派遣がなくなっても、違う形で既に似たような仕組みができている。そういう仕事をする先で正社員になったとしても、スキルアップできるわけではないから結局は低賃金から抜け出せない。法規制に意味はあるのか」と疑問を感じている。 (中略)
健司さんは、しばらく日雇い派遣などで収入を得て、資金が溜まればシェアハウスを運営したいという。不安定雇用が増加する中で、家賃が安くて済むシェアハウスは、仮の住まいとしてこれからも需要は伸びると、自身の体験から思った。それが軌道に乗れば、再びメッセンジャーの会社を立ち上げたいという。
「正社員になれたとしても、学歴のない自分にとって、せいぜい年収300万円程度の求人しかなく、サービス残業は当たり前となる。時給単価で見れば、派遣の方がいい。企業が倒産すれば、正社員はその瞬間に路頭に迷う。だったら、今の仕事がなくなっても次を紹介してくれる派遣の方がいい。最終的には国も企業も当てにはならない。誰かに頼るのではなく、独立して自分で仕事を得て生きていきたい」
世知辛い世の中に対して、清々しいほど達観していますね。
彼のような境遇の若者は、今後も増えこそすれ減ることはないのかもしれません。
ノスタルジックな想いだけでは何も解決しないですし、こういう「何かに頼らず独力で生きていく」という気概の若者が増えると、日本という国の閉塞感も少しは変わってくるのかもしれませんね。