富士通、新社長に山本正己常務を内定

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【PC Watch】 富士通、新社長にPC事業出身の山本正己執行役員常務

富士通は、4月1日付けで、山本正己執行役員常務が、執行役員社長に就任する人事を発表した。
 
野副前社長の退任後、暫定的に社長を兼務していた代表取締役会長の間塚道義氏は、4月1日付けで社長の兼務から解かれる。

昨年9月の野副前社長の突然の退任からようやくですか。

【PC Watch】 富士通、新社長を間塚会長が兼務 ~野副社長は病気療養で相談役に

富士通株式会社は25日、代表取締役会長の間塚道義氏が代表取締役社長を兼務する人事を発表した。代表取締役社長だった野副州旦氏は病気療養のため相談役に退く。(中略)
 
9月25日午後7時から、東京・汐留の富士通本社にて行なわれた会見では、代表取締役会長兼社長に就任した間塚道義氏が登壇。
 
「構造改革をあれだけ積極的に推進してきた野副氏の辞任は大変残念である。企業活動の継続性を考えて、当面、私が兼務をする。当面としたのは、緊急事態の影響を最小限に留めるということを優先したものであり、しかるべきタイミングで後任社長を選任したい。構造改革への取り組みなどに変更はない。従業員一同一丸となって、難局を乗り越えたい」として、一時的な社長登板であることを示した。
 
「しかるべき時期」については、「年内なのか、年度内なのか、株主総会までなのかは決まっていない。後任社長のイメージについても決まっていない。指名委員会でディスカッションをしていきたい」とした。 (中略)
 
間塚氏によると、「連休前に野副氏に会い、中堅企業向けに対してどうしていくかといった話を聞いた。その時には、病気の状況にあるとは思っていなかった。また、そうした話も出なかった。本日の取締役会の前に、直接本人から、辞任の申し出があった。私は、治療に専念したいので、社長の職務をまっとうできないと理解した。具体的な病名については聞いていない。後任は考えていなかったが、社長の兼務は、取締役会で決定したものであり、野副氏から指名があったものではない」とした。

会見にも出ず、ほとんど職場放棄に近い退任でしたから、とても印象に残っています。


でも、野副氏の経歴はとても興味深いです。

「大局の責務」を知る男:FACTA online

野副とはいったい何者なのか。富士通にはかねて霞が関や永田町、あるいは欧米でロビー活動をする特殊部隊がある。その部隊のトップを務めた男が野副なのである。
 
1980年代、富士通が米IBMと特許をめぐって争った際、ワシントンで積極的なロビー活動を展開。さらに、米半導体メーカーの旧フェアチャイルドの買収を画策し、結果的に頓挫したときにも実務担当者として働いた。秋草が社長時代の2001年、富士通傘下のインターネットプロバイダー、ニフティをソニーに売却しようとしたことがあったが、その交渉役も担った。この辺りから経営トップの覚えがめでたくなった。
 
03年に社長に就いた黒川は、それまで2期連続で1千億円単位の最終赤字を計上し、瀕死の状態にあった富士通の再建に着手。最大の課題とされた情報システム構築部門の立て直しを野副に命じた。
 
顧客企業の情報システムを作る、いわゆるソフト・サービス部門は富士通の稼ぎ頭だ。ところが、曖昧な契約で仕事を始め、相手の言いなりで追加発注を受けるうちに、気がつけば赤字プロジェクトになっている。そんなどんぶり勘定のビジネスが罷り通り、ともすれば一つのプロジェクトで100億円単位の損失を出すような弊習に染まりかけていた。
 
野副はソフト・サービス部門の経験もないまま乗り込んで再建を図った。厳密な契約を結び、採算を月次で把握できる仕組みを導入、赤字プロジェクトの撲滅を成し遂げた。部門内では「ゲシュタポ」と呼ばれることもあったが、気がつけば「年間2千億円の営業利益をコンスタントに上げられる体制にした」(幹部)のである。自らを「根なし草」と卑下しながら、常に大局を見据えて仕事をしてきた。ITバブル崩壊後、「明日こそ倒産か」と噂された富士通。黒川は社内に体質改善を訴え続け、健康体に戻した。

駐米時代は、ほとんど産業スパイに近いような任務もやっていたそうです。

野副州旦:「黒衣」も厭わず人脈を形成 | キーパーソン図鑑

ニューヨークでは、IBMの動向に通じた人間をつかまえた。それまで、富士通では海外勤務は日系企業の世話をするSEだけだったが、事務系から初めて「IBMウオッチャー」として派遣された。毎朝4時にクイーンズ区のアパートを出て、近所の日本人記者と一緒にタクシーでダウンタウンへ向かい、出たばかりのウォールストリート・ジャーナル紙やニューヨークタイムズ紙を買った。必要な記事を拾い、訳し、国際電話で日本に伝える。日本は、夜の8時から9時だった。
 
でも、新聞情報だけでは、価値がない。もっと独自の情報を、早く手に入れなければいけない。駐在していたSEの一人が、米国人の知人を何人か紹介してくれた。その人たちが、次々にいろいろな人と会わせてくれ、「人脈」が築かれていく。その情報通や証券アナリストたちを、片っ端から食事に誘い、話を聞く。
 
あるとき、その1人が離婚した。慰めようと、何度も一流レストランに招く。音楽好きだったので、小沢征爾氏がカーネギーホールで指揮をするときには、彼女の分まで2席とった。日本的と言える配慮で、反応が心配だったが、素直に喜んでくれた。最後に、彼の会社とコンサルティング契約を結ぶ。報酬は年間3万ドル(当時の換算で約800万円)。自分の駐在手当が月に700ドルだから、その4倍近く。当時としては大きな額で、本社にボロクソに言われる。
 
当時、IBMは開発中の新機種に「インカ」とか「マヤ」という隠語を付け、一番大きなコンピューターは「カナディアンロッキー」と呼んでいた。そうした話をあの手この手で手に入れる作業は、「007」の世界に近かった。そんな生活が、31歳まで続く。40代でやってきたワシントン勤務への、助走だった。

でも、ロビー活動や諜報活動だけでなく、SI事業の建て直しも軌道に乗せたのですから、経営者としての力量はあったのでしょう。
ですが、やはり社長という「日の当たる場所」は、居心地が悪かったのでしょうかね。