講談社
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瞠目するような新知識がないので。
書名は忘れて、読んでみよう
サイエンスと文学のあいだ
よく練られたミステリーのようだ。
著者の福岡伸一のことを知ったのは、毎日新聞紙上での対談記事だったと思います。 相手はカツマーだったような気が。
分子生物学の研究者ということでしたが、語り口が文学的で面白い人だなと思いました。 品のないカツマーが相手だったからかもしれませんが。
その後、古本屋で『できそこないの男たち』を買ってきて読みました。
「オスは母親の遺伝子を広めるための使いっ走り」というのは、村上龍が言った『すべての男は消耗品である』というのを、生物学的に裏付けているように思いました。
『生物と無生物のあいだ』で印象深かったのは、シュレーディンガーが提唱した「生命とは動的平衡である」という考え方ですね。 エントロピー増大の法則から免れるために、せっせとタンパク質を作っては壊している。 数日で体を構成している物質は、新しい素材で置き換えられている。 その際限ない自転車操業こそが生命なのだそうです。
細胞が新しい材料で置き換えられていくなら、古い傷とかが跡になって残るのはなぜだろう? DNAが設計図なら、元通りになってもいいはずなのにと思うのですが、本書によると「DNAは全体像を示すマップではない。実行命令が書かれたプログラムでもない。せいぜいカタログがいいところだ」とあります。 細胞というのはジグソーパズルのように、単に近隣の細胞に合うように配置されているだけなのだそうです。
本書でも、ソルビン酸(合成保存料)の話とか興味深かったのですが、一番惹かれたのは須賀敦子の『地図のない道』に出てくるヴェネツィアの水路の話です。 その水路はインクラビリ(不治の病)と名付けられていたそうなのですが、この不治の病は梅毒だったのだそうです。
ルネサンス期のイタリアで猛威をふるっていたそうで、多くの娼婦やそれと関係を持った貴族が罹患していたのだとか。
そういえば、『チェーザレ ― 破壊の創造者』の主人公であるチェーザレ・ボルジアも梅毒に掛かっていたという説もあります(若くして死んだので、死因は違うようですが)。
奇しくも週刊モーニングの今週号では、目に腫瘍ができたオルシーノ・オルシーニとチェーザレが対面する話や、チェーザレの部下であるミケロットが主人公のアンジェロを娼館に連れて行くシーンが描かれています。 何やら先行きを暗示しているような気もします。
インクラビリというのは、言い換えれば業(ごう)のようなものです。
自分にとってのインクラビリはなんだろう?と考えたのですが、小さい頃から常に何か興味が持てる対象を見つけて、それを掘り下げるという行動を繰り返してきたような気がします。
それは、プラモデルやラジコンだったり、自転車だったり、バイクだったり、PCの自作だったり、オープンソースだったりと、その時々によって変わっています。 メカとかシステム的なものが多いですが、没入できる物を欲しているのでしょう。
仕事でも、設計という仕事自体が素潜りのように思考の海にダイブするものでした。
新しい知見やスキルを身につけるのが好きでしたし、若い頃は成果よりもついそちらを優先してしまうこともありました。
何もせずにボーっとするのも大好きなんですが、それでも常に掘り下げる対象がなければ生きていけないように思います。
死ぬ前に自分の人生を俯瞰してみれば、掘り散らかした沢山の穴が無数に開いている光景が広がっていることでしょうね。