「orz」な若者たち

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前の記事でも引用しましたが、もうちょっと。

不正入試とエントリーシートと「orz」な若者たち:日経ビジネスオンライン

私は、「orz」の後ろに括弧書きで(落胆・失意を示す記号)という解説を付した新聞記事を読んで、少し笑った。ははは、新聞は、こういう解説が必要な人々のためのメディアになってしまったのだなあ、と。
 
が、笑いが引いた後、容疑者の学生の孤独を思って粛然とした。
 
K容疑者の焦燥が、校閲経由の解説抜きでは世間に届かなかったという、そのことに思い至ったからだ。ESの受け取り手である企業の採用担当の人々も、彼が「orz」という自らの似姿にこめた感情を汲み取ることはできないだろう。なんという孤独な嘆き。結局、大人たちは、この学生の「orz」を黙殺したのだ。

「orz」って、普通に通じると思ってたんだけど、世間一般ではそうじゃないのね。

面白いなと思ったのは

学生は、試され、質問され、緊張を強いられている。にもかかわらず彼は、自分に緊張を強いている当の人々に気に入られることを願い、できれば仲間に加わりたいと考えている。
 
一方、採用側は、学生を検分し、評価し、点数化し、彼に対して恩を与え、あるいは排除する権能を持っている。
 
この状況では、「いじめ」が起こらない方が不思議だ。おどおどした学生を何十人も面接しているうちに、面接官はゲシュタポみたいにふるまうようになる。はずだ。

似たような例ですが、ウチの会社の守衛所にいる人は横柄な人が多いです。 あれは最初からそういう人を集めたのではなく、だんだんとそうなってしまうものなのでしょうね。

問題は欺瞞なのだ。どんなに苦しい闘いでも、いかに苛酷な競争であっても、ゴールの先に価値ある勝利が待っていて、走り抜けるトラックが公正であるのなら、選手たちは努力を惜しまない。苦しくても頑張ることができる。
 
でも、競争が欺瞞で、ゴールが不当で、前提がインチキであるという疑念が一瞬でも生じたら、彼等の苦難はにわかに不潔極まる不毛な我慢比べになってしまう。
 
大学入試における不合格は、結局のところ、その原因を、自身の努力か能力(あるいはその両方)の欠如に求めるほかにどうしようもないテのものだ。その意味で、悔しくはあっても、最終的には納得できる。
 
が、就活の失敗には、明確な答えがない。基準も点数も明示されない。落とされた身からすれば、人格を否定された後味だけが残る。まして、その失敗が20件も続いたら、マトモな精神状態を保っていること自体、難しくなる。(中略)
 
現在、われわれは、学歴や偏差値について、二つの相反する建前が併存したダブルスタンダードの社会で暮らしている。
 
テレビに出てくる文化人は、学歴を「無意味な飾りに過ぎない」と言う。
著名な起業家も「偏差値を絶対視する態度は間違っている」と断言する。
教壇に立つ学校の先生も、「個性が大切」だと、異口同音にそう主張している。
 
いま大学を受験しようとしているのは、そういう耳に心地よいお題目を聞かされてきた子供たちだ。

そりゃそうだけど、だからどうしろと?
矛盾や欺瞞のない世界を作れと?

「社会」に矛盾や欺瞞が溢れているのは、人間という存在そのものにそれがあるからでしょ。
就活も婚活も、正解がないのと時期が来たら自動的にできるものではないという点で同じことです。
結局、学生生活(本当はここにも矛盾や欺瞞はあるけどね)に最適化しすぎるから、「社会」に適合できないのではないですか。

世の中には就職や結婚に限らずいろんな「制度」があって、それに対してどういう態度を取るのかは、個人に委ねられています。
「制度」の中で暮らすもよし、「制度」に戦いを挑むもよし。 さらに「制度」の外に出るもよし。
どれを選ぶにしても、それぞれにメリットとリスクがあります。

早いうちから、子どもにこういうことを教えた方がいいのかなと思うけど、そうすると可愛げがない子どもになっちゃうんだよな。 オレみたいに。