いま日本に必要な「民間防衛」

発信箱:子孫のために - 毎日jp(毎日新聞)

なんて不幸なことなんだろう。朝刊には各地の放射線量が載っている。「食品の規制値」の表もあるし、「ベクレル」や「シーベルト」という単位にみんな慣れてきた。福島原発事故の影響である。いま、「民間防衛」(原書房)を読み直している。スイス政府が「あらゆる危険から身を守る」ために全戸に配布した本だ。
 
核や生物・化学(NBC)兵器で攻撃を受けたときの、民間レベルの対処法が具体的に書いてある。私たちが直面しているのは戦争でもないし、兵器級の脅威ではない。しかし、たとえば放射性物質から身を守る方法は「1メートルの土の下だと、放射線は5000分の1に弱まる」とか、「体の露出した部分は徹底的に洗う」などは役に立つ。「ごく小さい放射性のチリは、数カ月にわたってはるか上空に浮いており……草、野菜、果実、ときには飲料水まで汚染されることも」という記述は、まさにいまの日本の状況ともいえる。
 
10年以上前、陸上自衛隊の元化学学校長の井上忠雄さん(75)から勧められた本だ。現在は、放射能(R)を含めた「NBCR対策推進機構」の理事長として、全国を講演して回っている。福島原発の事故について、井上さんは怒りを隠さない。「なぜ政府は発生当初から、きちんとデータを取って地形や風向きに即した汚染状況図を作り、公表しなかったのか。それがあれば農家は対策を打てたから、食物汚染もかなり防げた。これは半分以上、人災です」
 
本は「最悪の事態に備える」という精神に貫かれている。科学的なデータに基づき、うろたえず、自分で、地域で、備えておくことを求めている。それが「民間防衛」の本質なのだ。巻末はこう締めくくられていた。「それは、また、われわれの後に続く子孫のためでもあるのだ」

さすが、各家庭に核シェルターがあるお国柄。 それに比べて日本は甘すぎました。

でもいくら科学的なデータに基づき、論理的に判断したとしても、あっさり「間違っていました」とひっくり返るのが科学という物です。
「海はヨウ素に満ちているから、魚介類はヨウ素131を体内に取り込まない」なんて言ってましたが、実際にはコウナゴから高いレベルのヨウ素131が検出されています。 その程度のものです。

結局は、あとから後悔しないように、自分自身で主体的に判断して行動するしかないと思います。
10年後に白血病や甲状腺癌になっても、TVに出ていたコメンテーターは「だから、『ただちに』 (健康に影響を与えない)と言ったでしょ?」というだけです。

でも、テレビで福島原発付近の風向きとかの情報も提供するようになったのは、15日くらいからだったと思うので、チェルノブイリの教訓はある程度生かされていたように思います。


民間防衛」という意味で、三陸に古くから伝わることばに「津波てんでんこ」というのがあります。

「ひとつになろう」より「てんでんこ」がいい:日経ビジネスオンライン

三陸の人びとは、「老幼の者を助けようとして一家共倒れに」なったり「家族をさがしているうちに逃げ遅れ」たり、「点呼を取っている間に津波に呑まれ」たりしてきた苦い経験から、緊急時にあっては、とにかく「個人の判断と責任において、一刻も早く逃げる」という方針を徹底してきたというのだ。
 
より詳しい解説をする人は、「てんでんこ」は、「たった一人でも生きていかねばならない」という決意および、「家族やまわりの者を助けきれなかった者(自分も)を責めてはならない」という事後の心構えをも含んでいるのだという。
で、この「てんでんこ」の教えが、結果として、大船渡や釜石で、その教えに沿った避難訓練を繰り返してきた子供たちを、津波の被害から救うことになった、と、そういう話だ。
 
印象的なエピソードだ。
なにより実践的である点が素晴らしい。避難訓練というと、「一糸乱れず」に、「全員が一致」して「整然と」避難する過程をイメージしがちがだが、実体験から来る知恵は、訓練のための訓練とは発想の根本が違っている。
 
非常時にあって、決断を他人に委ねたり、周囲の状況に安易に同調することは、命取りになりかねない。普段から、自分の状況に合った避難の方法と経路を、自分のアタマで考えられるようにしておかねばならない。そういうことなのであろう。

「助けられなかった自分を責めてはならない」 たった5文字の「てんでんこ」という言葉に、そこまで深い意味があったとは。 先人の教訓というのは重いですね。

原子力発電所の安全神話が崩壊したのも、原発を推進する人びとが「ひとつになって」いたことと無縁ではない。
 
帝国陸軍において戦局の不利を語る一派が「卑怯者」として排除されたのと同じように、安全という言葉が神話化していた組織では、安全に疑義を差し挟む意見自体が忌避される。と、異論を許さない鉄壁の安全神話において、リスクは黙殺される。危険を想定することそれ自体が、組織の団結に対する反乱と受け止められるからだ。なんという言霊信仰。

ことさら拡散した放射性物質の量に対する危険性の低さを強調する報道に対して、多くの人が反射的に疑いを覚えずにはいられないのは、これまでメディアと原子力村が結託して数々の警告を無視した結果が、今回の原発事故だからと思うのです。