働かない市民への支出は繁栄をもたらさない

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年配者は若者に「職」を譲るな:日経ビジネスオンライン

就業年数の延長に人々が反対する背景には、「35~40年も働けば、いい加減もう休んでいいだろう」という考えがある。だが「若者が職に就けるように年配者は身を引かなければならない」と考える人が多いのも理由の1つだ。そんな気持ちを代弁するかのように、英フィナンシャル・タイムズ紙のコラムニスト、ルーシー・ケラウェイ氏は最近の記事で次のように書いている。「のん気な我々の世代がそこここに居座っているから、若者が先に進めない」。
 
経済学者であれば、この理論における欠陥を見抜くだろう。ケラウェイ氏の記事は「世の中には一定量の仕事しか存在しない」という考え方に基づいている。この概念は、経済学で「労働塊の誤謬」と呼ばれているものだ。かつては女性の社会進出を阻む口実として持ち出された。今日でも、反移民の立場を取る政治家が、移民は国内の仕事を奪う脅威だとしてこの理論を利用している。(中略)
 
もしも「労働塊」の理論が正しいのであれば、高齢層の雇用率が高ければ、その分、若年層の雇用率が低くなるはずだ(もしくはその逆)。しかしそんな傾向は微塵も見られない。高齢層の雇用率が高いグループは、若年層の雇用率も高くなっている。

日本でも氷河期世代にそういう人が居ましたね。

では高齢層の就業が若年層の就職を妨げないのはなぜか。

それは女性が社会に出ても男性が職にあぶれないのと同じ理由である。生計のために働く時、人は収入を得る。そしてそのお金で、他者が生み出した商品やサービスを購入する。この場合の「他者」を構成しているのは老若男女のすべてである。
 
就業パターンもまた変化する。かつては大半が農業に従事していた。だがトラクターやコンバインが登場しても、失業状態が永遠に続いたわけではない。人々は、まず製造業で、次にサービス業で、就職先を見つけた。しかも60代の人間は30代の時にしていた仕事には就かないかもしれない。
 
とはいえ、上述の理論やデータをいくら見せられたところで納得できない人もいるだろう。ではここで1つ、思考実験をしてみよう。高齢者が早期に退職した場合、彼らは若い世代に依存することになる。国から困窮者向けの給付金を受けている層と同じことが、実は、個人年金の給付を受けている層についても言える。年金の資金を生み出す株式配当や債券利息の支払いに必要な収益を、労働者に依存しているからだ。
 
実際、企業年金基金が赤字に陥っている理由の1つは、度重なる早期退職プログラムにある。これは“見せかけの節約“の典型的な例だ。短期的に給与の支払額は減少したが、長期にわたる年金コストは増加してしまった。同プログラムを導入した企業は、80年代、90年代のような高収益の年金運用を期待して、長期の年金コストを賄えると考えていた。
 
企業レベルで起きていることは、社会一般にも当てはまる。人々はこう考える――経済成長は続くから、定年後の生活が長くても何とかなるだろうと。だが経済が成長するためには、就労人口を増やすか生産性を上げるかしかない。働かない市民への支出を膨らませる社会が、真の意味で繁栄を続けることなどあり得ないのだ。
 
もし早期退職が本当に生活水準の向上につながるのなら、何も60歳まで待つことはない。55歳にすればいい。仮に政府が退職年齢を40歳に引き下げれば、すべての若者が職を得て、みながぜいたくに暮らせることになる。だが悲しいかな、ギリシャ神話に出てくるロトパゴス族(ハスの実を食べ、無欲で平和に暮らしている人々)の世界はあくまでも夢物語なのだ。

そういえば「消費が伸びないのは中高年が減ったから」というのを聞いて、妙に納得した覚えがあります。 「稼ぎ、消費する」世代が減れば、経済活動が萎むのも道理です。

もっとも若者たちが「ジジイを首にして、オレたちに仕事をよこせ」というのは、自分の収入を増やしたいからであって(もちろんそれ自体は自然な要求です)、社会や経済全体のことを考えてのことではないんですけどね。