怪傑ハリマオと藤原岩市少佐

  • 投稿日:
  • by
  • カテゴリ:

戦後70年に向けて:出動せず/16 二つの線の交点に - 毎日新聞

亡くなる3年前、年号でいえば昭和42年春、三島は自衛隊に体験入隊する。福岡県・久留米の陸自幹部候補生学校のあと、富士山のふもとにある陸自の教育機関、富士学校で1カ月過ごした。昭和の年数がそのまま年齢となる三島だから、当時42歳。ひと回りほど年下の隊員学生たちと寝食や訓練を共にした。

のちに陸幕長になる冨澤暉(とみざわひかる)(76)もこの学校にいた。30歳前、バリバリの「青年将校」である。すでに結婚していて、家賃5000円の二軒長屋に住んでいた。妻の父は、太平洋戦争史の中で「F機関」の創設者として名を残した藤原岩市(86年没)。マレー半島における数々の情報活動を主導したことで知られる。戦後陸自に入り、陸将となる。三島の体験入隊を取り持ったのも藤原だった。その藤原が「三島さん、若手幹部の暮らしぶりをご覧になりますか」と娘夫婦の借家に誘ったという。
 
もうひとつ。冨澤の実父は第4回(1936年下半期)芥川賞作家の冨澤有爲男(ういお)である。そのことも藤原から聞かされていたはずだ。余談だが、三島の代表作「金閣寺」に登場する「美しい娘」の名は「有為子(ういこ)」である。先輩作家の名を意識していたのかもしれない。二つの線が交わったところに冨澤がいた。初めて愛する自衛隊に入り心躍らせていた作家が、若手幹部夫婦の家の玄関に立った。

実に面白い話ですね。

この藤原岩市さんという方、ビジネスマンとしても間違いなく成功したでしょうね。

藤原岩市 - Wikipedia

1941年10月、駐バンコク大使館武官室勤務として開戦に先駆けて当地に入った藤原は、南方軍参謀を兼ねる特務機関の長として、心理戦を行った。若干十名程度、増強を受けても三十人ぐらいの部下だけで、藤原はかなり幅広い任務を与えられた。その内容は、極端に言えば、マレー人、インド人、華僑等を味方にすることである。その一環としてマレーシア出身の日本人である谷豊を諜報要員として起用したのもF機関であった。谷は死後、「マレーのハリマオ」として日本で英雄視されることになる。
 
F機関と藤原の最も大きな功績は、インド国民軍の創設である。当時タイに潜伏していた亡命インド人のグループと接触して、彼らを仲介役として藤原は英印軍兵士の懐柔を図った。藤原は、降伏したインド人兵士をイギリスやオーストラリアの兵士たちから切り離して集め、通訳を通して彼等の民族心に訴える演説を行った。この演説は(日本についての歴史的評価がどうであれ)インド史の一つのトピックである(w:The Farrer Park address)。インド国民軍は最終的に5万人規模の大集団となった。(中略)
 
その後は藤原を戦犯とする裁判が始まった。1946年3月、ラングーン経由でシンガポールはチャンギーの刑務所に送られ、尋問を受けた。その尋問はとても厳しいものだったという。幸いにも、有罪とはされなかった。この後、さらにクアラルンプールで別のイギリス軍組織から、すなわちイギリス軍情報部から、F機関とインド国民軍結成について取調べを受けた。尋問官は藤原の功績をglorious successと評価し、自身経験もなく、人員も不十分なのにもかかわらずそれを成しえた理由を聞きたがった。藤原自身その理由はよくわからなかったが、とにかく自分は誠意を持って彼らに接したんだということと、イギリスの統治に無慈悲なところがあったからではないか、と考えながら説明したという。

最初は八紘一宇大東亜共栄圏樹立の理想に燃えてという訳でもなく、カンパニーの命令でたまたま赴任した先で頑張った結果なんだろうと思います。
立場は違えど「誠意」が大事、ですね。

F機関のその後ですが、藤原少佐の手を離れたあと

特務機関 - Wikipedia

機関はやがて500名を超える大組織となり光機関と改称された。光機関は1943年、ドイツに亡命していたインド独立運動の大物スバス・チャンドラ・ボースを迎え、ボ-スと親交の深い山本敏大佐が機関長となった。光機関の命名はインドの言語(ヒンディー語)で“ピカリ”という言葉と、「光は東方より来る」という現地の伝説から“光”とされた。支援していたインド国民軍は自由インド仮政府軍に発展、一部はビルマの作戦に従事した。またインパール作戦の途中、大本営の遊撃戦重視への作戦方針変更に伴い、機関は南方軍遊撃隊司令部と改称し同時に、前述の各班の外参謀部・副官部・マライ支部・タイ支部・サイゴン出張所が設けられた。途中機関長が磯田三郎中将に交代するも、機関自体は終戦まで軍事顧問団として活動した。結局インパール作戦は失敗し当時の日本陸軍とインド国民軍は連合国軍に降伏した。

悪名高きあのインパール作戦へと繋がっていくのですね。


ところでハリマオです。

快傑ハリマオ - Wikipedia

『快傑ハリマオ』(かいけつハリマオ)は、1960年4月5日 - 1961年6月27日まで日本テレビ系ほかで放送されていた日本のテレビ映画である。『怪傑ハリマオ』とも表記される[1][2][3]。
 
抑圧される東南アジア(第4部を除く)の人々を解放すべく、正義の使者ハリマオが活躍する。(中略)
 
制作は宣弘社で5部構成の全65話。太平洋戦争直前前後にマレー半島で大日本帝国陸軍に協力した、“マレーの虎”こと谷豊をモデルに、山田克郎の『魔の城』を原作として制作された。第2部以降のオープニングに「ハリマオとは? マレー語で 虎のことである」というテロップが表示された。

自分は本当に小さい頃に観た記憶があるんですが、再放送だったようですね。 「赤影」とか「マグマ大使」が好きだったから、その流れで観ていたんでしょう。 真似して頭にタオルを巻いていたような気がします。

谷豊 - Wikipedia

その後も豊は部下や特務機関・「F機関」とともに諜報活動に従事していたが、その主な任務は敗走する英軍が橋に仕掛けた爆弾の解体だった。しかし、先回りして橋を爆破されていた事が少なくなく、また爆弾が何十にも仕掛けられていて全ての爆弾の除去に間に合わず失敗、と言う事も多々あった。そのもどかしさにさすがの谷も、「橋を爆破しろというなら俺の本業だから慣れているが、仕掛けた爆弾や爆破装置を除去せよという命令には参った」と神本に愚痴をこぼしていたと言う[3]。 さらに不幸な事に、谷はその最中にマラリアに感染してしまった。当時、日本軍は英軍から捕獲したキニーネ剤を大量に保有していたが、谷は「本当のマレー人なら白人の作った薬は飲まない」とキニーネ剤を断固として飲まず、現地の伝統法であるサイの角を粉末にして飲んでいた。これがあだとなり、谷の症状は周囲の人間が担架で担がないといけない程にまで悪化してしまった。その時の状況をF機関長・藤原岩市少佐はこう記している。
 
『プキット・パンジャンの本部にたどり着いたのは14日朝9時ごろであった。クアランプールから本部のFメンバー全員が到着していた。 神本君が沈痛な面持ちで私を待っていた。ハリマオがゲマス付近に潜入して活躍中、マラリアが再発して重態だという報告であった。 ハリマオは、ゲマス付近の英軍の後方に進出して機関車の転覆、電話線の切断、英軍配下のマレイ人義勇兵に対する宣伝に活躍中、無理を押していたのが悪かったのだという説明であった。 私は神本君になるべく早くジョホールの陸軍病院に移して看護に付き添ってやるように命じた。 一人として大切でない部下はない。しかし、分けてハリマオは、同君の数奇な運命とこのたびの悲壮な御奉公とを思うとなんとしても病気で殺したくなかった。 敵弾に倒れるなら私もあきらめ切れるけれども、病死させたのではあきらめ切れない。私は無理なことを神本氏に命じた。 「絶対に病死させるな」と[4]。』
 
2月1日午前3時ごろ、谷はジョホーバル野戦病院に緊急入院した[5]。しかし、施設も決して充分なものではなく「病院と言うべきかどうか分からない」程の状況だったという。 2月17日、更に藤原少佐は陥落間もないシンガポール病院への転院を命じた。[6] しかし、ここでも充分な治療は受けられず、谷は日に日に衰弱していった。また、3月14日には、病床の谷を神本が訪ねている。 その時の状況を、神本のガイドを務めていた当時19歳の青年、ハジ・アブドル・ラーマン氏は次のように述べている。
 
『トシさん(神本)とハリマオは硬く手を握り、言葉少なく、眼と眼を見つめ合っていました。おそらく二人だけの心に通じる無言の会話を交わしていたのでしょう。 今でもはっきり覚えていることは、ハリマオがトシさんとの約束であった、誰か友人のイマム(導師)に頼んで、トシさんのイスラム教への改宗のシャハーダ(儀式)を行うまで生きておれそうにないと、 すみません、すみませんと、何度も詫びていたことです[7]。』
 
その三日後、谷は短い生涯を終えた。31歳だった。遺体は部下らが引き取り、イスラム式の葬礼をおこなったという。現地のどこに葬られたかは今だ分かっていない。現在、シンガポールの日本人墓地に記念墓がある。

いつかシンガポールに行く機会があったら、記念墓にお参りに行きたいな。

F機関‐アジア解放を夢みた特務機関長の手記‐
藤原岩市
バジリコ
売り上げランキング: 230,520