吉野家が大切にしてきたはずの牛丼への強いこだわり。それが揺らいだことが、かつての倒産の一因だった。当時の吉野家は店舗拡大を急ぐあまり、乾燥肉を使い、粉末のタレに頼ったのだ。顧客にそっぽを向かれ、会社更生法の適用申請に追い込まれた。吉野家の経営が行き詰まると、「牛丼の時代」は終わったとも言われたが、安部らの働きによって品質を取り戻す。1987年、吉野家は更生計画を終えた。(中略)
「僕はアルバイトから始まり、入社して店長見習い、店長、『スーパーバイザー』と呼ばれる指導役、とステップを経るごとに、牛丼の奥深さが分かっていった。すごいものだとね。だから、コンペティター(競争相手)たちは吉野家を嫌いなくせに、マネをする。まんま、マネだから。そのぐらい優れたものなんです」
BSE騒動で「業界の盟主」の座から転落することになったのは、当時の安部社長の傲慢と言えるほどの自社の牛丼への自信が原因だと自分は思っていました。
プロダクトアウトではなく、もっと消費者の目線で判断するべきでは? 豪州産牛肉でも米国産と同じ味を出せるように企業努力するべきではないかと。
今ではたとえ正解ではなかったとしても、海より深い「牛丼愛」による判断だったのだなと理解できます。
吉野家の代名詞になっていた「単品経営」を変えていく――。今の吉野家改革が一気に動き出したのは2004年、米国BSE(牛海綿状脳症)問題で米国産牛肉が使えなくなったことかもしれない。他チェーンが豪州産牛肉に調達を切り替えるなか、安部は「吉野家の味が再現できない」と言って牛丼をメニューからはずした。BSE問題発生以降、「牛丼のない吉野家」はおよそ2年半に及び、2年連続の最終赤字に沈んだ。
「BSE問題が発生して、吉野家は『牛丼で一番』のポジションを手放すことになりました。今は、もう一度、ちゃんと吉野家の存在感をつくり直している最中です。一方、2007年につくった持ち株会社の吉野家ホールディングスには、讃岐うどんの『はなまる』、ステーキの『どん』、すしの『京樽』などがありますが、それぞれの分野でトップになってほしい。トップになるというのは価値や存在感でということです。規模で一番というわけではありません。お客様に『あそこが一番いい』、従業員に『同業他社よりはここが一番働きやすい』と思ってもらえるような、ステークホルダーそれぞれが一番に感じられるということです。まだ、どれ一つトップでありません」
「盟主」の座よりも「牛丼の味」を守ることを優先したということなんでしょう。 創業者でもないのに、なかなか出来ることではないですね。