大学というブラックビジネス 人生のスタートから借金漬けになる学生たち(千田有紀) - 個人 - Yahoo!ニュース
教授会には、授業料の延滞者のリストが回ってくる。授業料の遅延者の氏名を知ったあと、どうするかは悩ましい問題だ。保護者のまったくのミスで授業料を払い忘れ、退学になった例もあるからである。しかし先生から、「授業料が振り込まれていないんだけど」とは言いにくい。毎回出てくる氏名には、気が付かないふりをするしかない。
かつて授業料を払えない保護者のために、大学がローン会社と提携して、紹介することになった。しかしすぐにそれはあまり意味がないことが判明した。大学の授業料を滞納する保護者の多くはすでに債務者であり、ローン自体が組めなかったのである。
自分とほぼ同世代の大学教授の方の記事です。
自分も日本育英会から無利子奨学金を借りていました。 就職して返すのは大変でしたが、そもそも授業料は全額免除でしたから苦労したうちには入りませんね。
成績優秀な学生が授業料を払えなくて苦労しているなら、大学は授業料の割引などするべきではないのかな?
私が大学教員になれたのは、日本学生支援機構の前身の日本育英会の奨学金のおかげである。借りた期間は短いものの、数百万円の奨学金を「貰う」ことができた。大学の先生という免除職につき、15年間連続して勤務した結果、返還義務がなくなったのである。かつての大学院の進学者を支えていたのは、この日本育英会の奨学金とこの免除規定である。しかし免除職の規定はなくなり、日本育英会もなくなった。小泉政権の「改革」の一環である。当時、「まだ公平な奨学金制度はなくすべきではない。社会の公正、格差の問題なのだ」と言ってはみても、「あんたみたいに貰い逃げする人間がいるから、無駄で不平等な制度だ」と周囲の反応は鈍かった。制度の改変とその結果の出現には、タイムラグがある。
そんな制度があったとは知りませんでした。
ちゃんと返した者からすると、なんで「大学のセンセイだけ優遇?」という気持ちになりますね。
ところで、
勤務校の名誉のために言っておけば、自分がかつて受けてきていないほどのきめ細やかな指導がなされているし、授業料以上の教育がなされていることは自負している。そこは自信をもって断言できる。
一方で、
日本の大学の授業料の高さは、世界的にも異常である。ヨーロッパはほぼ無料に近い。しかも上昇を続けてきた国立大学の授業料を、私立大学並みにするという。日本の大学授業料の公費負担は32.2パーセントにすぎない。OECD諸国の平均は、72.6パーセントであるというのに(授業料や奨学金についての文部科学省説明資料はこちらを)。
そもそも大学の授業料のコスト構造ってどうなっているんですかね? 都心の一等地にキャンパスを構える必要性があるのかな?
もしも放送大学みたいなスタイルの講義とか「e-ラーニング」形式にしたら、どれくらいコストが下がるんだろう? 今どきの学習塾や予備校の方がよっぽど進んでいるじゃない?
知識の伝達だけが大学の役割ではないのだろうけど、本分とプラスαの部分は分けて考えるべきかと思うよ。
国に対して「教育にカネを出せ」というのは簡単だけど、高齢化で増える一方の福祉などもカットせざるを得ない時代がやってきている訳です。
「学生が大変だから、理事会、学長以下、全員の給料をカットしよう」という声は、大学の「中の人」からは聞こえてきません。
旧態依然とした「大学」もカタチを変えていかないと、もう社会的に成り立たないんじゃないの?
怒れる米国:大統領選/3 格差拡大が政治不信招く 若者らは非主流派を支持 - 毎日新聞
「『チェンジ』ではなく『リアルチェンジ』。次の大統領は、政治のアウトサイダーでないといけない」。同州立大学を卒業し、心理学の博士号取得に向け勉強中のサラ・ルコウスキーさん(25)は、高額な授業料のため、5万ドル(約600万円)の学生ローンを抱える。富裕でなければ大学教育を受けられなかったり、ローン返済に苦労したりする問題を体感した。大企業や富裕層への増税や最低賃金引き上げを掲げるサンダース氏は「格差問題と本気で闘おうとしている」と感じている。
折しも米国でも同じような不満を抱える若者が、社会主義者の大統領候補を支持していますね。
「大きな政府」にすれば問題は解決するのか、興味深いです。
ちょっと前にこんな記事を読みました。
日本は「格差社会」である前に「階級社会」だ | オックスフォード×ケンブリッジ 英国流創造と学びの技法 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
生まれた階級による格差は、世代を越えて影響を及ぼすことが特徴である。そして、それが子供の教育に与える影響が大きいため、1960年代の公教育の量的拡大の頃からイギリス、アメリカでは盛んに議論され、対策が取られてきた。格差と犯罪発生率には相関があること、そして格差の是正に教育が果たす役割が大きいのもひとつの要因である。教育は社会的地位を高める手段として広く考えられているのだ。しかし、両国ともその対策はうまく機能していない。
さて、日本社会ではどうであろうか? 結論から言うと、日本ではイギリス、アメリカと同等かそれ以上に、親の経済力・学歴、出身地(都市のほうが有利)が子供の学歴に影響を与えている(苅谷剛彦著『大衆教育社会のゆくえ』〈中公新書、1995年〉に詳しい)。確かに、大学時代を振り返っても、そうだった。そんな現実の一方で、教育に関する話題の中心は最初に述べたような「子育て論」や「教育方法」ばかりなのである。日本も、出自による格差が強く固定化した「階級・階層社会(Class Society)」化が進んでいるにもかかわらず、結果のみを見た「格差社会」という言葉ばかりが使われているのだ。
そういう側面があるのは否定できないですが、「階級」の定義にちょっと引っかかりました。
Class societyを日本語にするなら、適語は「階級(階層)社会」となるだろう。「格差」と「階級」の違いを簡単に説明すると、格差とは社会の中で所得や待遇に差が生じている「結果」に重点を置く言葉で、階級・階層とは育った環境のような「社会的背景」に重きを置いた言葉である。
サッカー選手のデビッド・ベッカム氏が日本に紹介されはじめたころ、しばしば「中流階級出身」という言葉が使われた。ベッカム氏は、結果を基準とする「格差社会」の中では最上位層に位置する一方、「階級社会」の議論では中流出身ということになる。しかし、サッカーを通じて社会階級を乗り越えたベッカム氏の子供は、上流階級の出身ということになるだろう。
一代で成り上がった程度では上流階級にはなれませんよ。 ましてやベッカムはアレックス・ファーガソンのように「サー」の称号(それでも一代限り)をもらった訳でもないですし。
有名だとか金持ちだとか美形だとかそういうものでは乗り越えられない、自力ではどうしようもないものが「階級」です。
で、今の日本にそこまで絶対的な壁があるのかというと、それはどうかなと思いますが。