企業は「顧客」として振る舞う社員を必要としていない

  • 投稿日:
  • by
  • カテゴリ:

鹿島茂さんの「引用句辞典 教育崩壊」(『毎日新聞』12月22日朝刊)の続き: 伊藤高史のページ

鹿島さんによれば、学生は学校で学んだことをいきなり実地に移して高給をとることを望むようになる。つまり、「『顧客』として満足したいがために就職するのである」という。なるほどと思う。確かに学生を見ていると、そういう部分があるようにも思えてくる。鹿島さんは次のように続けている。
 
 だが、いうまでもないことだが、企業は「顧客」として振る舞おうとするこうした社員を必要としていない。企業が求めるのは、本当の意味での顧客(消費者)を満足させるために、無遅刻無欠勤をはじめとする企業内の規律をよく守り、ワガママを捨てて他の社員と協調し、その上で初めてクリエーティブなことに挑戦するような社員である。
 
しかし、「規律に従う」という習慣行動を身につけていない学生は、仕事が続かない。鹿島さんは次のようにエッセイを締めくくっている。
 
 「お客様は神様です」という発想こそが教育崩壊の原因なのである。

ウチは毎日新聞を購読してて、このコラムを読んで面白かったので紹介しようと思っていたのですが、年末だったこともあって忘れていました。

古新聞の山から発掘したのですが、「毎日.jp」には見つからず。 どういう訳だか、毎日新聞はWebに載せないコラムが非常に多いんですよね。 バカじゃないかと思うんですが。
という訳で、ネットで見つけた他所様のブログから引用しました。

鹿島茂氏のコラムで、エミール・デュルケムの『道徳教育論2』から引用されていたのは、以下の部分です。

生徒たちが服する義務のほとんどが目的とするのは、その義務自体でもないし、またすぐ眼の先の明日でもない。 すなわちそれは、やがて彼らが大人になったときに営む生活に備えての、純然たる準備練習なのである。 遊びや怠惰に耽ることなく、勉学に励むことを生徒たちに望むのは、単に生徒としての義務を立派に果たさせ、もって教師や学級の自慢の種にするためではない。 それは子どもがもっと後になって役立てることができる教養を、すなわち、社会の中で一個の真面目な人間として立派に生きていくのに欠くことのできぬ努力の習慣を習得させるためなのである。
 
学校に学ぶ間に身につけた行動様式の自然的結果は、子どもが学窓を去り、実社会に飛び込んでいったときに、はじめて現れるものである。 いうまでもないことだが、その時になってようやくその非に気づいても、すでに遅い。 そして、遅きに失するのを未然に防ぐには、自然の成り行きに先駆けねばならない。
すなわち教育者が積極的に関与して、規律の規則にたいして実社会向きの制裁を結びつけなければならない

まあ、結びの部分には異論もあろうかと思いますが、概ね同意できるのではないでしょうか。
特に「単に生徒としての義務を立派に果たさせ、もって教師や学級の自慢の種にするためではない」というのは、親や教師への痛烈な批判です。

目的に向かって(辛くても)努力する習慣を身につけるというのは大事なことです。 自分は放任されて育ったので、「やりたいことしかやらない(やれない)」人間に育ちましたが、苦労しますよ。

全寮制の学校で塗炭の苦しみも味わいましたが、学校生活における理不尽な規則なんて社会に出てから味わうものに比べたら砂糖菓子みたいなものです。 その程度で耐えられないようなら生きていけないよ、というのも事実なんですよね。

というわけで学生のみなさん、夜中に校舎のガラスを壊してまわったり、盗んだバイクで走り出したりしないようにね。

道徳教育論 (講談社学術文庫)
エミール・デュルケム
講談社
売り上げランキング: 28042