「グローバルスタンダードの転換点」を理解できず自ら破滅した日本

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安倍談話より歪んでいる日本のメディアの「歴史認識」[橘玲の日々刻々]|橘玲の日々刻々 | 橘玲×ZAi ONLINE海外投資の歩き方 | ザイオンライン

日本は明治維新によってアジアで最初に近代化を成功させましたが、実はその頃には植民地主義は末期を迎えており、第一次世界大戦で民族自決が新しい「正義」になりました。安倍談話にもあるように、日本はこの「グローバルスタンダードの転換点」を理解できず、侵略と領土の拡張にのめり込んで自ら破滅したのです。
 
近代国家は民族の共同体として、よいことも悪いことも含め過去の歴史を引き継ぐのですから、都合のいいところだけを拾い食いして負の歴史から逃れることはできません。だからこそ日本は植民地に対しても謝罪しており、“欧米列強”が過去の植民地政策を謝罪・反省などしていないことを考えれば、これはもっと誇っていいことでしょう。欧米のメディアが安倍談話を批判しているのを見ると、その自分勝手な歴史観に首を傾げざるを得ません。

個人的には済んでしまったことを蒸し返しても仕方ないと思いますが、太平洋戦争に突入した理由を「無能な政治家」や「軍部の暴走」だけに矮小化するのもどうなんだろうと思いますね。

中国の大閲兵式は米国への挑発か秋波か:日経ビジネスオンライン

戦争の歴史を正義と悪に単純に区別して論じられるのは、やはり中国的であり、同時に米国的でもある。日本の歴史観も戦争観も正義と悪をきれいに分けられない。これは、日本が第二次大戦で敗戦を喫したから、というわけでもなく、喧嘩両成敗的な発想がもともとあったり、判官贔屓といった敗者、弱きものへの同情心が強かったりすることと関係があるのだろう。
 
敗者には敗者に至るプロセスがあり、悪人には悪人となる理由がある。日本にあるのは盛者必衰の理であって、勝者が敗者になり敗者が勝者になり物事は流転するという考え方だ。弱者や敗者に対して比較的同情的であるのは、自分が弱者や敗者になることを想像できるからであり、そういう想像ができるのは、弱者や敗者でも救済される余地があるからだ。厳しい国情の国では、弱者や敗者は徹底的に殲滅させられるので、自分が敗者であったならば、という仮定は、あり得ないのである。自分が弱者であったならば、敗者であったならば、と想像できる国は平和で幸せな国なのである。

「Winner Take All」の一方で「敗者には何もやるな」というのは米国のスポーツ界でよく言われることですが、日本人にはなかなか理解できない部分でもあります。