過去の教訓

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【誤算の研究】マツダ:NBonline(日経ビジネス オンライン)

マツダは88年に「B‐10」計画と呼ぶ大胆な販売拡大策を打ち出した。5カ年で国内販売台数を40万台(当時)から80万台にまで倍増させ、海外市場に依存した経営体質を改善する、という内容。この拡販策の柱が販売5系列制への移行である。
 
(中 略)
 
計画推進の中心人物である安森寿朗専務は「B‐10」の狙いをこう説明する。「生き残るためには最低10%のシェアが必要。それには80万台を売らなければならない。トラックや大衆車のメーカーというイメージを払しょくし乗用車で上位メーカーに対抗するには、新チャネルが必要だった」。低価格車メーカーとの企業イメージを消すため、あえて販売系列からマツダの名前を外した。

日本の自動車産業史に残る「大失敗」である、マツダの5系列化のお話です。
そういえばホンダも一時期に「チャレンジ80」とか言って、国内販売80万台を目標にしてましたね。

もう15年以上前のお話です。

皮肉にも「形として80万台を売る体制がようやく出来上がった」(和田社長)と同時に販売不振に陥った。和田社長は「5系列を縮小する考えは全くない」と断言するが、戦線を拡大してきた販売店は厳しい状況に追い込まれている。ライバルメーカー幹部は「単純計算してもマツダの販売店は1拠点平均で月15台しか売っていない。他社の平均は約35台。いくら小規模な拠点が多いと言っても、これで成り立つとは到底思えない」と語る。(中略)
 
市場の冷え込みという逆風はあるものの、なぜこれほど販売が落ち込んでしまったのか。販売店の側からは「乗用車の上級移行を急ぐあまり、大衆車や商用車の開発に力を入れなかったため」(前出の販売店幹部)という声が上がっている。前期に発売された11の新車はすべて3ナンバーの高級車かスペシャリティーカー。「需要構造が上級車へシフトしていくのは時代の流れ」(安森専務)だとしても、あまりにも極端に走った商品展開が結果的に販売減をもたらした。

ロジックとしては分かるんですけどね。 でも当時のマツダに、上級車を作って売る能力があったかは別問題です。

姉妹車戦略によって1台当たりの開発費は通常よりも抑えられるが、5系列維持にかかる開発負担の総額はマツダにとって決して軽くはない。87年10 月期(89年から3月期決算に変更)に2564億円だった固定費総額は、相次ぐ新車開発に伴う研究開発費、減価償却費などの先行投資負担の増加によって、 92年3月期には4188億円と63%も増えた。
 
3位争いを演じている本田技研工業、三菱自動車工業の同じ期間の固定費の伸びはそれぞれ31%、57%。増加幅はマツダが一番大きい。この間のマツダの売上高の伸びは約44%にとどまり、損益分岐点比率は97.5%にまで上昇した(固定費および損益分岐点比率はNEEDS‐COMPANY=日本経済新聞社の総合企業データバンクシステムによる)。

結局これが仇となって、大リストラ、フォードの出資比率引き上げ、フォード出身社長就任、系列1本化で、マツダにとっての「失われた10年」が始まる訳です。

大衆車と商用車の落ち込みをどう防ぐかのシナリオもまだ見えてこない。マツダは利幅の小さい大衆車を売っていては利益を上げられない体質になっている。また、商用車にまで開発の力を注ぐ余力はない。「付加価値の高い乗用車で地歩を築くのは、マツダが生き残っていくために不可欠の道」と安森専務は語り「後戻りのできない川を渡った」と言う。
 
3輪トラックから出発し、第1次石油ショック後の経営危機を徹底した合理化と大衆車ファミリアのヒットで乗り切ったマツダ。よい車を安く造る技術にたけたこの会社は、「安い車のメーカー」から脱却しようと努めてきた。それがマツダを高コストな体質へと変質させ、市場低迷の中、そのツケが重くのしかかってきた。

確かに「後戻りのできない川」でした。 結局は商用車からは撤退してしまいましたからね。
本当は「安く造る」体質のまま、「付加価値の高い乗用車」を作らなければならなかったのにね。